キリスト教 | ||
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キリスト教とはイエス・キリストが創始したのではなく、イエスの復活という妄想から出発したところに特異性があるといえるでしょう。それゆえ「神の国はあなた方の中にあるのです。」(ルカ17の21)というキリストの本質と思われる言葉は、キリストは「神の子と呼ばれるようになる」(ルカ1の35)という預言にかき消されていったようです。キリストは彼に教えを請うものに「父よ、御名がが崇められますよう、、、」(ルカ11の2)と祈れといいました。「天にいます私たちの父よ。御名が崇められますように。」(マタイ6の9)ともあります。つまりキリストにとって「神」はすべての人間の父であったのですが。 ローマ帝国の厳しい迫害にも関わらすキリスト教が帝国内に広がったのは、元の国家や居住地を離れて暮らす多種多様な民族のコミュニティが発達したからと考えられます。彼等にとって帝国に支配され破壊された民族の神々はすでに頼れるものではありません。コミュニティがあるといっても基本的には個人として生きるしかありません。それゆえに民族を超えた絶対的な神が必要だったのでしょう。そのころはまだユダヤ教に近い信仰状態だったと考えられます。 キリスト教は帝国の衰退とともに急速に広がっていったようです。不安を抱えた支配層の中にも、特に婦女子を通じて広がったでしょう。そしてついに帝国の国教となりました。その時キリスト教は純粋な信仰から政治的権力組織へと変貌したのでした。それはまた、キリストの復活という妄想が、妄想であってはならなくなったということでしょう。そのためにはキリストの神格化は権力にとって欠かせないことでしたでしょう。こうしてユダヤ教やイスラム教のような純粋な唯一絶対神教とは異質で不純な唯一絶対神教、「神の子」キリストを崇める三位一体説のキリスト教が確立されたのでした。新約聖書のキリストの言葉は矛盾に満ちたものだそうですが、キリスト自身も神がかりであるし、伝承者の個性とともにこうした作為の結果でもあるでしょう。 大衆向けとはいえ、唯一絶対の神にただ一人の子があるなど無理もいいところと思いますが、キリストの復活という幻想を信仰の根源とする宗教を、権力の保証人とする以上しかたがなかったといえるでしょう。その矛盾ゆえに異端に対して厳しかったといえます。 |
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三位一体説はキリストとそれに対する信仰をどのように理解するかについての最も重要な神学思想のようです。三位とは「一なるもの」を父である『神』と、その「心(ロゴス)」の表現者であるキリストと、その(心の伝達者のような)聖霊という三つの姿(位格)を持っているという考え方でしょう。 問題なのは「聖霊」をどのように理解するかということでしょう。聖書では預言者のような特別な人(キリストもその一人でしょう)にのみ注がれたということですが、降臨ともいえそうです。キリスト教神秘主義者が目的とするのはこの「聖霊」の降臨のようです。「聖霊」がもたらすのは上智、聡明、賢慮、勇気、知識、孝愛、主への畏敬など精神的徳目ですから、「聖霊」とは道教思想における「精神」のようなものといっていいでしょう。ルターに始まるプロテスタント運動では、聖書のみに基づく信仰が強調され、三位一体説などの神学の権威は地に落ち、あるいは否定されるようになったということです。 |