旧約聖書

 旧約がすばらしい文学であることは言うまでもありませんが、特別の約束を与えられたと信じるヤコブの子孫の情熱の賜物といえるでしょう。人は誰でも、特別に選ばれたものと信じられるなら、その幸福は至上のものであり、感謝と尊敬を惜しまないでしょう。
旧約だけではなく、唯一絶対神教の聖典に流れる感動は、創造し支配する力に対するものと言っていいでしょう。それを読むものはその言葉と一体になり、その神になったような気になるでしょう。聖職者になるものにはそれが強いのはいうまでもありません。

 創世記を正しく理解するなら、「神」は善と悪のすべてを作ったものであり、「人」を造るときに「我々に似るように、我々の形に、人を造ろう。」と、我々いっているように、多神教に属する神話であることは明らかでしょう。ただ、他の多神教と違うのは「人」を特別なものとして作ったということでしょう。聖書には自我を感動させる言葉にあふれています。自我の書といえるかもしれません。

 創造期の「神」はその創造のできばえを自ら「非常に良い」としています。完全に良いとはいっていません。つまり不完全であることはいいことだということでしょう。そうすれば世界は静止するこ」となく動き続けるのですから。また、「神」は「人」に選択の自由を与えたといえるでしょう。なぜなら、「野の獣と、あらゆる空の鳥を形作られたとき、人のところに連れてこられ」それに名前をつける自由を与えたのですから。

 創世記1は原始多神教の名残と思われますが、創世記2になると少し変化します。人を塵から造り、エデンの園を作り、善悪の知識の木を作り、女を男のあばら骨を作るなど、精神主義的な記述が入ります。一神教時代に入っての創作でしょう。
 創世記3において「神」は「人は我々の一人のようになり、善悪を知るようになった。」ので人がいのちの木から実を取って永遠に生きることを出来ないようにするためにエデンの園から追い出したのでした。選択を誤ったものに対しては罰をということでしょうが、自分に似るように造っておいてそれはないでしょうといいたいところです。精神主義の矛盾といえます。
蛇は多神教に共通のシンボルです。それは貪欲な生命力、生殖力、欲望を現します。その否定は原始多神教との決別を意味するでしょう。