釈迦
伝説の人物でしかない釈迦の実像を最もよく伝えるのは「私にはこれこれのことを説くということがない」という言葉でしょう。「これこれのこと」とは「神」の存在のような宇宙原理のことでしょう。宗教の始祖としてのこの言葉は現代にあってもユニークな感じを受けます。古代世界ではもっと新鮮な感じだったかもしれません。釈迦のこの姿勢の裏には何があるのでしょう。当時のインドには「六師外道」のような様々な世界観・宇宙観が生まれていたし、何よりも支配階級バラモンにはヴェーダ・ウパニシャッドの様々な宇宙創造神話がすでに存在したのです。彼らのあいだには激しい論争があったでしょう。しかし、現代のように科学が発達していなかった時代ですから、そのどれを正しいとするか判定する材料がほとんどありません。ただの空理空論で終わっていたのです。そういう空しい議論を合理的精神の持ち主だった釈迦は嫌ったのでしょう。
 
 釈迦自身のものと思われる仏教の根本精神は「苦からの自由」です。「一切苦」と釈迦が言ったかどうか分かりませんが、生産力増大による人口増、それによる武士階級勢力拡大など、争いごとの多かったのが釈迦の時代でした。釈迦の目には世界は「苦」としか見えなかったのでしょう。釈迦はその「苦の原因」を追求し、その答を「世界は無常である」ことと「無常なものへの欲望と執着」に求めました。そこから自由になる方法はまずこの世界の「苦」について「思念する」ことだとしました。「思念によってもたらされる智慧」によって苦しみから自由になることができる」のです。これが彼の根本の考え方であったと思われます。釈迦が弟子たちに教えようとしたのは、この「苦の世界」に対する「思惟」の大切さだったのではないでしょうか。
 「私にはこれこれのことを説くということがない」と語った釈迦の真意は、「あるがままの現実に真理があるのであって、見えない存在、神や原子・元素のようなものにあるではない」ということではないでしょうか。

 釈迦は如来とも呼ばれますが、『如』とは真如という意味で、サンスクリット語「タタター(あるがままであること)」から「真如性」と漢訳され、「不変不改である真理」という意味になったようです。
 真如は如実とも訳されるということですが、如実とは「実際そのまま」という意味が普通でしょう。「あるがままであること」を「もののありのままの現実」ととるのが普通だと思いますが、それを「真実で永遠不変のもの」と解釈することに違和感を感じます。おそらく大乗時代になってからの解釈でしょう。