ユダヤ教 | ||
ユダヤ人の恐るべき自我の強さは宿命的なものでしょう。それが彼等の世界の歴史に果たす役割といえるでしょう。運命もDNAも「生命」の必然性です。彼等が生んだユダヤ教は「自我」のなんたるかを最もよく表現するものといえます。 ユダヤ人の祖、アブラハムはヘブロンの土地の永代使用権を手に入れるため「契約」を結んで「わたしはあなたたちとともにいるよそ者、寄留者です」といい「確かにアブラハムの土地になった」ことに繰り返し念を押したという。(創世記第23章)まさにユダヤ教を象徴する言葉です。これはおそらく事実に基づく記述でしょう。よそものにとって「契約」の確かさだけが支えなのです。彼等は数々の裏切りに合い、そして「契約」を絶対的にするには絶対的な神が必要になっていったでしょう。こうして彼等は自然神と決別したのでしょう。バビロンの捕囚となったのは支配階級の人々でした。それゆえ彼等はその不幸を支配者の責任にすることが出来ず、自らの責任を自問自答するしかなかったでしょう。それゆえに個人の責任が彼等の思想となり、それが国をうしなったまま世界中にちりじりに散らばったユダヤ人の魂となったのでしょう。 「見よ、すべての魂は私のものである」という捕囚エゼキエルのかたる「神」言葉は、国家を失い民族を失った魂にとって必然的な叫びでしょう。国家もない、民族もない、あるのは「神」一人のみであるというのです。ここで初めて、モーゼの頃はただの一神教で、イスラエルの民の神に過ぎなかったエホバが唯一絶対の「神に」なったのです。 世界のほとんどの人々は血縁集団のなかで生きているといいます。日本人の場合は土地との結びつきが大きい、地縁集団といえるかもしれません。しかし、ユダヤ人にはどちらもありません。宗教でつながった集団です。混血も進んでいます。個人として生きるしかないのです。ユダヤ人は人間の生命を最も大切にするといいます。「神」が自分に似せて作ったのですから当然ですが、自分の命を大切にするには他人の命も大切にしなければならないでしょう。 |
||