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『世界生命(WELTGEIST・WELLEBEN)』 |
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精神主義的宗教時代の「宇宙論」は「宇宙創成神話」でした。超越的存在による「創造」あるいは「流出」「展開」に重点を置いていたのです。科学的唯物論の現代における「宇宙論」は物理的「変化」です。「変化」において「宇宙の始まり」と「宇宙の終焉」が問題になります。主な「宇宙論」には「ビッグバン理論」と「定常宇宙論」がよく知られているようです。一般的に知られている「ビックバン理論」は生死を繰り返す「宇宙」ということでしょう。「定常宇宙論」は新たな物質を生成しつつ膨張し続け、増え続ける無始不朽の「宇宙」のようです。新たな物質は「無」から生まれるもののようですから不思議です。ブラックホールからでしょうか。膨張しない固定的な「定常宇宙論」を信じる人もいるようです。
宇宙論には様々な見方、考え方があるようですが、完全なものはないようです。こうした意見の違いは物質的エネルギーの世界が彼らの期待しているような確かなものではなく、量子的に不確定なものということから来ているからでしょう。思うに、量子的不確定性とはその生まれてくるところの実在が生命的だからではないでしょうか。
生命においては、一見ばらばらで不統一な部分と部分が全体としては統一行動をとっています。「部分と全体は関係性の複雑な織物の中で連動している」(パラダイム・ブック)のです。生命のシステムは何か目に見えない力で秩序づけられているかのように見えます。しかしそれは、何らかの特定の力によってというのではなく全体運動としてだということでしょう。たとえば最近の医学では、コレステロールには本来善玉も悪玉もないということがわかってきました。善玉になるか悪玉になるかは心身全体の状況によって変化すると考えられます。これは心においてもいえることでしょう。人間の心は思い想うことの、善悪美醜様々な様相を持っていますが、善は善だけ、悪は悪だけで独立して存在するのではないし、善そのものも悪そのものも存在しないのです。肉体の状況も、作用する心身の全体作用の中でそのように現象するものと思われます。心に善の要素とか悪の要素が存在するのではないのです。機械と違って部分が部分だけで存在することはなく、部分の総和が全体ということもないのです。
「生命論的世界観」においては物質的エネルギーは不確定的で不安定、多面的で多重な生命的システムから現象しているといえるでしょう。それゆえに見る立場、『意識・心』の違いによって「宇宙論」の違いも生まれてしまうのです。 |
『物質』は『心・意識』が存在しなければ存在しないのですが、『心。意識』は『物質』が存在しなくても存在するということに改めて思い至ります。
「すべては生命的システムおける関係性の網の中にある」というわけで、『心・意識』は『生命』のものであり、『生命』と一体です。『世界・宇宙・大自然』も一つの生命体と見ることができるでしょう。
『大自然』を一個の生命体として見るとき、それはまた一個の『心』と見ることができるでしょう。見えない心の中では生命システムと同じようなことが起こっていると考えます。『生命』と『心』を一体に見る、これが『生命論的世界観』です。 |
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『宇宙・世界』を生命体としてとらえるとき、我々の見ている自然世界はその「肉体」のようなものでしょう。そしてその自然世界の観念を与える電磁波のような物質的エネルギーによる物象化システム(物理世界)は「身体」のようなものではないでしょうか。この物象的化システム・物理世界を『身体』とし、物質的エネルギーを『身体性エネルギー』と呼びたいと思います。そして、「生命論的世界」を、ヘーゲルの『世界精神』をもじって『世界生命』といいたいと思います。当然のことながら、『世界生命』の『身体性』の生命化現象の裏には『魂』の発達があるでしょう。
世界誕生
生命論的にいえば、137億年前の『宇宙』の誕生から地球誕生までの時間は卵割時代といえるかもしれません。46億年前の地球の誕生から40億年前の生命の誕生、それはそれまで眠っていた心的エネルギーが動き出したかのようです。
そして約6億年前、目に見える大きさや固い殻や骨を持つ大型多細胞生物が出現から爬虫類の時代までは胎児の時代といえるかもしれません。
6千5百年前くらいといわれる哺乳類の誕生が赤子の誕生です。
そして6百万年くらい前の人類の誕生が自我の萌芽といえるかもしれません。
原初的自然神に反抗して精神論的世界観が成立した時代を『世界生命』の第一次反抗期とすれば、現在科学的唯物論の中にいる人類という「自我」はまさしく第二次反抗期のまっただ中にあるといえるかもしれません。精神的理性に対抗して科学的理性を主張し、父親のように「超自我」として振る舞ってきた精神的権威にノウを突きつけているのです。
現在、栄華を極めた唯一絶対神教も凋落に向かっているようです。人口増加で勢力を拡大しているように見えるイスラム世界においても、宗教的権威は衰退しつつあるようです。
やがて反抗期は終わり、それぞれの旅立ちの時期を迎えつつあるのではないでしょうか。すでに「価値観の多様性・欲望の多様性」の時代に移行しつつあるのです。旅立ちの時代、それはまた矛盾相克の時代でもあるでしょう。価値観を共有する集団の時代は終わりを迎えるでしょう。その先にどんな世界が待っているかは、「生病老死」は『生命』の定め、「禍福はあざなえる縄のごとし」といいます。『身体性』の波に翻弄されながら成長していくのが『人類』という『自我』というものでしょう。
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「世界精神」の原語、ドイツ語Weltgeistはwelt(世界)とgeist(精神)の合成語のようですが、独和辞典によるとgeistの第一義は生命、生命力とあります。geistの原義は英語のghostと同じ霊魂ということで、幽霊という意味もあります。ドイツでもキリスト教支配以前における霊魂は生命力だったのでしょう。geistは知力・判断力・才能あるいは精、精霊、妖精などの意味でも使われるようです。
精神という漢語も原義も(精妙な)霊魂で、元気や生気、力という意味でも使われたようですが生命力ではなく霊力でしょう。このサイトにおけるWeltgeistは『世界霊魂』といった方がいいかもしれませんが、戦後日本の霊魂には生命力が失われているようですから、『世界生命』にします。ローマ字表記はWELTGEISTがいいでしょう。
ちなみに長くローマ帝国の支配下にあったイギリスやフランスの精神という言葉はラテン語のspiritusから来ています。英語のghostは幽霊であり、霊魂の意味は失われ、精神の意味も生命力の意味もありません。
生命のドイツ語訳を検索するとlebenと出ます。lebenは存在する、生存する、生活するという意味であって、霊的・原理的な「生命」ではないようです。魂のドイツ語としてseele英語(soul)がありますが、こちらは肉体を離れた心的な意味合いが強いようです。
生命力を意味する英単語はvitalityですが、生活力に対する褒め言葉でしかないようです。日本語「イノチ」はイキ(息)のチ(霊)のということで、「生命力」と考えるのが本源でしょう。世界中の魂・霊魂の語源は全て気息であるといわれます。天地を循環する気息、生命の源、すなわち生命力、つまり魂・霊魂本源の意味は生命力なのです。
ヘーゲルの「世界精神、ではなく世界霊魂」は『絶対霊魂』の現実体ということのようです。存在の一切は「絶対霊魂」の自己表現(それが『世界霊魂』)というのがヘーゲルの世界観ですから個人の自由意志は存在しないという見方もあるようです。しかし、ヘーゲルは世界で最も理解困難な哲学ともいわれるようです。様々なサイトを見比べてみると、おそらくヘーゲルにおけるWeltgeist(その主体である絶対精神、absoluter Geist)は生命的な霊魂であり、それが理解できない哲学者が多いからではないからと思われます。もし Weltgeist・absoluter Geist を生命的な霊魂だとするなら、その分霊である個の霊魂にも自由意志があるのではないでしょうか。
『絶対精神・世界精神』は創造者としての『神』の否定でしょう。スピノザの世界観の延長といえますが、より生命的な印象を受けます。『精神現象学』(このサイト経営者は「絶対的精神」が「芸術、宗教、学」であるといっていますが、つまり『絶対霊魂』がそこに現れているということでしょうか)を垣間見ると、ヘーゲルは『霊魂』において欲望と理性を差別していないように思われます。
『神』の絶対的聖性と創造物である人間の自由意志は矛盾するでしょう。人間を、そして自然を、『神』の生命力、あるいは自由意志の展開とするならその矛盾は解消されるでしょう。ヒンズー教のブラフマン・アートマンと共通の構図といえます。『神』の絶対的愛と、恩寵など差別的愛を疑うことなく受け入れるように、信仰は矛盾を無視しますが、哲学者の理性・良心は創造の否定によって矛盾を解消しょうとするものです。 |
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身体と肉体
身体とは人間や動物の体を物質的な構造・システムという面から見ているといえるでしょう。英語では形容詞のphysical(肉体の機能的な面を強調する身体の。物質・物理のという使い方も) がそれに当たりますが名詞形はないようです。派生元のphysicという名詞は薬;下剤、医業という意味ですが、原義は自然科学ということです。physicsは物理学です。『身体』という名詞を作るとすればPHYSICALTHでしょうか。
肉体とは肉欲の対象、血肉の通った生身の体から見ているといえるでしょう。英語ではflesh が相当します。
広闊的な表現である体 はbody です。
「心身問題」は英語ではmind-body problemです。心身という表現は心体では身体と重なってしまうからでしょう。機能システム的な面を重視しているのかもしれません。
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