クモ膜下出血からの生還

2005年1月27日からの、入院の際には多くの方にご心配をいただきありがとう
ございました。
皆さんの励ましが大きな力になり、この病気を克服することができました。
本当にありがとうございました。

忘れてしまわないうちに、記録にしてみようと思い本ページを作成しました。
これは本人の体験を基に書いていますので、症状の表われかたや、軽重については
個人差が大きいようです。
従って本ページの記述は、あくまで 1 つの例としてご覧ください。  (2005年4月)

1・突然の発症から緊急搬送

2005 年 1 月 27 日の夜、のんびりと風呂に入ってくつろいでいる時に、それは襲って
きました。
突然、目の前が霧に包まれてしまったのです。
それと時を同じくして、急激な肩こりが起こりました。
今まで経験した事のない肩こりです。
両肩から首筋にかけて、背中に十字架を背負ったような肩こりでした。
重い、痛い、何とも言えないような肩こりでした。
これがほぼ同時に起こったのです。
「これはクモ膜下出血だ」と思いました。
なぜそう思ったのか、理由はわかりません。

発症した時は、頭を動かしてはいけない事と、一刻も早く手当てを受ける事、という
注意がすぐ頭に浮かびました。
ぼんやりとした意識の中で身体を拭き、パジャマを着て家族に「救急車を頼む」と言って
仰向けになりました。
当然きれいに拭けているはずはなく、身体はびしょ濡れでしたし、随分、か細い声だった
ようです。
その頃、頭の痛みはどんどんひどくなっていました。
救急車が到着する数分を待ちかねた妻が、息子に「お兄ちゃんが乗せていったら」
という声が遠くで聞こえていましたが、心の中で「救急車にしてくれ」と叫んでいました。

幸い、我が家から 500m ほどのところに、消防署ができていたので、その基地から発進
した救急車はすぐに来てくれました。
救急車が到着して「救急救命士の○○です」という隊員の方の自己紹介が、とても
頼もしく感じられましたが、担架の上で「もうこの家に帰ってくる事はないだろうな」と
思っていました。

2・断片記憶しかない入院期間

救急車が走り出して、隊員の方が「どちらの病院を希望されますか?」と質問を
されたので、希望する病院を告げました。
遠ざかる意識の中で、隊員の方と、病院とのやりとりが聞こえていました。
妻の話では病院へ着いたのは、救急車を依頼してから 15 分後だったそうです。
これ以上は短縮できないだろうと思われる、最短の時間で到着したのです。
病院へ着いたら「脳外科の先生がこちらに向かってるから気を強く持ってね」という
看護師さんの声が聞こえていました。

それから先は断片的で、こま切れの記憶しかありません。
ほんの少しだけの記憶しかなくて、家族から話を聞かされ「そうだったのか」と思う事
ばかりでした。
そんな記憶喪失のような期間が、2 月 18 日まで続いたのです。
ほとんどが記憶から欠落していましたが、この期間でも、おおむねきちんとした会話を
交わしていたようです。
息子の言葉では「ちゃんと会話してたけど、たまにちゃらんぽらんだったよ」との事
でした。

”名前、生年月日、今日の日付を言って、目を指示に従って動かして、手の指を順に
閉じて開く、足の指も閉じて開く、肘や膝の屈伸”が日に何度か行われました。
どこかに麻痺が発生していないかの確認だったのでしょう。
幸いな事に、私はいつも、全部の項目を通過していました。
時々、その日の日付がわからなくなりましたが、時間の観念が薄くなっていたからだと
思います。
このチェックが、いつ頃終わりになったのか覚えていません。

また、この期間は、ベッドで寝たきりでした。
身体には、点滴の管と、心電図の配線、血圧自動測定機などがつけられていて、
ロボットのようだったよ、と家族は話していました。
ところが 2 週間が経った頃から、非行が始まったのです。
夜に、心電図や血圧などのモニターの端子を外して、ベッドから抜け出して、ふらつく
足でうろついたり、車椅子で連れて行ってもらうルールのトイレに勝手に自分で行って
転倒し、夜中に大騒ぎになったりしたようです。

さすがにこの時は、もうベッドに拘束せざるを得ないと病院は決めたようです。
話を聞いて仰天した妻は「私が泊まります」という事で、拘束は免れたのだと後から
聞きました。
実はこの時期は「今度破裂すると、死亡率が高いので、気をつけなければいけないの
です」と先生に言われていて、戦々恐々の家族でした。
「薄氷を踏むような日々で、生きた心地がしなかった」と後日、妻は語りました。
何も知らない私は、本能のままに動いていたようです。
妻が家に帰ってる間は、息子が代わりに来ていましたが、その意味がわかったのも
退院してからでした。

3・回復期

まだ記憶はない時に食事は始まりました。
はじめてお粥を食べさせてもらって、「こんな美味しいものは初めてだ」と言ったらしく、
今でも家族にからかわれています。
塩の全くきいていない 3 分粥でした。

病室は 3 度変わったようです。
集中治療室とその横の部屋。
そして 3 階の部屋。
私がはっきり覚えているのはその後移った、最後の部屋だけです。
その部屋は、東に面して、光のよく入る 3 階の、暖かい部屋でした。
昼間はいつもパジャマの上は脱いで、下着だけで過ごしていました。
遠くに、開通したばかりの東海環状道路の吊り橋が見えていて、退院したら絶対に
あの道を走るぞ、と思ったものでした。

入院して 3 週間が経とうとする頃になって、急に記憶がはっきりしてきました。
正確には 2 月の 18 日からです。
この日に先生から、病状と今後の治療方針の説明があり、家族と一緒に説明を受けた
のですが、その時の話は 8 割方は覚えています。
息子の押す車椅子に乗せられて行った、ナースステーションの奥にある、談話室でした。

その日まで、面会も一部の家族限定(事実上の面会謝絶)だったのですが、「もう来て
もらって良いですよ」と許可が出ました。
その頃には、ロボットのような配線はとれていたように思います。

自分で歩いても良い、という許可が出たのはその頃でしたが、それまではベッドの
上で起き上がるだけでした。
起き上がる、と言っても、寝たままの姿勢から腹筋や背筋を使って起き上がる事は
できず、一度海老のようになって、それから手摺などにつかまって起き上がって
いました。
これが、腹筋と背筋で起き上がれるようになった時は嬉しくて有頂天になったものです。

4・生きていることの実感

自分の足で歩く事ができる、というのはとても嬉しい事です。
それまでは、ベッドの上で起き上がるだけでしたが、降りる事ができるのです。
早速、降りようとして足を床につけて、体重をかけると・・・
踏ん張りが効かないで、フニャフニャと崩れてしまいそうになりました。
看護師さんと、妻が支えてくれていたので、何とか転ばずに済みましたが、人の足の
筋肉は、あっと言う間に衰えるという事を体感しました。

それから間もなく、リハビリが開始されました。
まっすぐ歩いたり、踏ん張ったりする「普通に歩く」為のリハビリでした。
ユニフォームとなってしまったパジャマ、そして足元は、子供の体育館シューズ(バレエ
シューズ)といういでたちです。
しかし、タコのような筋肉になってしまった私にとって、かなり根性の要るリハビリです。
約 1 時間で一通りのメニューが組まれています。
かつて簡単にできた片足立ち、ジグザク歩行。
このいずれもが、まるでできませんでした。
療法士さんは次の患者が待ってるので、メニューが終わると次へ移りますが、私は、
チャンスを作っては自主トレを行いました。

通路をフラフラしながらの歩行訓練は、ここが病院だからできたので、他の施設だったら
恥ずかしくて、とてもできないだろうと思います。
階段を使っての筋力アップ訓練は、最初の内は 1 階から 3 階を、1 回の登り下りだけで
バテバテになったものです。
身体中の筋肉が痛くて仕方がありませんでしたし、階段の途中で筋肉がプルプル震え
はじめた時には、泣き出しそうになりました。
これらの自分との戦いのような訓練は、その後の回復に、大いに役立ちました。

ちょっとだけ自信をもって歩けるようになったある日、先生から「一度家に日帰りして
来なさい」という指示がありました。
病院では、セントラルヒーティングとバリアフリー。
病人にとってこの上ない環境です。
この一時帰宅は、病院とは大きく違う環境の家庭で過ごす場合の問題を見つけるのが、
目的でした。
妹の運転する車に乗せてもらって、家に向かう時「生きて帰ってるんだ」という気持ちが
湧いてきて涙が出そうになりました。

5・そして退院

家に着いた時、我が家に入る前から、察知した愛犬のクロが、家の中から、激しく
鳴いて歓迎してくれました。
家に入ると、しばらくはクロのペロペロ攻撃です。
長く留守にしていても、ちゃんと覚えてくれていたのは嬉しい事でした。
クロは散歩を期待していた風ですが、私の体調を知っていたのか、ねだる事はしません
でした。

病院へ戻らなければならないので、晩ご飯は早い時間になりました。
一口、ご飯を口に入れ「美味しい」と思いました。
(私は、お粥からご飯への変更届けが、面倒くさかったので、病院食はお粥のままで
過ごしていました)
また、病室のベッドで食べる食事と違って、家族と共に食べる食事は格別でした。
久し振りに満ち足りた夕食でした。

看護師さんと約束していた時間、7時には病室へ戻りました。
一緒に部屋に来てくれた妻と妹が帰った後、その夜は、とても長かったのを
思い出します。

翌朝、回診に来られた先生から、困った事はなかったか、と質問されましたが、特に
ありませんでしたと答えました。
「リハビリの先生からも順調だと報告を受けていますし、何も無いようだったら、次は
一泊外泊ですね」と次のステップに話は進みました。

ただ、時折起こる頭痛は、頻度は下がっているとはいうものの、まだ完全にはなくなって
いませんでした。
咳をしたりすると、頭の芯が痛みます。
ある時は、中央から、ある時は右側から、といった風に安定しませんでした。
先生に尋ねると「血が神経を刺激すると痛むので、徐々に消えてゆきますよ」との事
でしたが、半信半疑で聞いていました。

頭痛の薬を携えての 1 泊外泊でしたが、この薬は飲む事はありませんでした。
この一泊外泊でも問題はなく、無事退院許可が出ました。
この退院許可が出る頃には、頭痛は、嘘のように消えていました。

3 月 4 日、いよいよ退院の朝です。
朝は 5 時から目が覚めて眠る事はできませんでした。
朝ご飯を「これで最後の病院食だ」と思って、いつもより時間をかけて食べました。
それから、髭を剃って、パジャマから、普通の服に着替えて迎えに来てくれるのを
待ちました。

部屋に入ってきた妻は笑い出しました。
まだ 9 時なのに、もういつでも帰ることができるように準備が整っていたからです。
まだ手続き等がありすぐには退院できなかったので、迎えに来てくれた息子と妻の
3 人で、温かい缶コーヒーで乾杯をしました。
それから、11 時が来るのを待って、薬を受け取って、お世話になった病院を後に
したのです。
救急車で運ばれてから 36 日ぶりの事でした。

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