思い出の 正山小学校 宇和川中学校 |
およそ3kmの山道を歩いて通った学校。
そこには、いつも大きな、やさしい先生がいました。
そして休み時間になると一斉に外に出て、ドッジボールなどに興じた友。
楽しかった時間を過ごしたあの学校の姿は、もうありません。
当時の思い出をたどりながら描いた、あの頃の校舎です。
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正山(しょうざん)小学校 |
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昭和30年代はじめ(1955年頃)「団塊の世代」が小学生だった頃です。
過疎化の進んだ現在では信じられませんが、山間にあった小さな小学校の在校生は、250名を
数えていました。
向かって右側は、奥から「1年」「2年」「3年」「4年」の教室でした。
正面には、右から「5年」そして、「職員室」があって、「6年」の教室がありました。
かまどのある調理室が職員室か6年生の教室の近くにあったのですが、場所を思い出せません。
まだ給食はなく、調理室では冬に、冷えたアルミの弁当箱を温めてくれました。
左側の校舎の一番奥には、蔵書は少ないながらも「図書室」がありました。
ガラス戸のついた本棚にあったこげ茶色の装丁の 「路傍の石」がなぜか目に浮かんできます。
そして「講堂」があって、一番手前に和室の 「家庭科室」がありました。
講堂には、舞台が備わっており、校長先生の訓話や、学芸会などに使われていました。
また年に何度か「視聴覚ライブラリ−」が来て、教育映画を上映してくれました。
娯楽の少なかった時代、楽しみな時間でした。
映画の時には暗幕を引いて締め切るので、250名の人で酸欠気味だったのか、私は頭が痛く
なったのを思い出します。
昭和60年頃(1980年代)に立ち寄った時には、向かって右側の校舎は取り壊され、やはり
木造ですが2階建ての新校舎になっていました。
その後、平成2年(1990年)に建て替えられましたが、平成26年3月(2014年)に肱川 小学校に
統合され、廃校になりました。
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京の森 |
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校舎の北にそびえる美しい京の森。
正山小学校を想うとき、真っ先に浮かぶのがこの光景です。
校歌の一番に謳われるにふさわしく、どっしりと子供たちを見守ってくれています。
運動場の東の端に大きなムクロジの木があって、秋になるとたくさんの実が落ちてきました。
その実の種を取り出し、皮だけにして水でこすると泡立ってきて、手の汚れが落ちました。
誰に教わることなく、みんなが自然にやっていましたが、この木に「石鹸の木」という別名がある
のを知ったのは、大人になってからでした。
6年生の新学期を迎えてすぐに、午後1時頃から日食がありました。
土曜日の終業後だったので、数人の残った仲間と、先生の家で昼食をご馳走になったあと、 先生と
一緒に観察したのを覚えています。
信尾先生は、私たちにまたとない体験をさせてやろうと思われたのでしょう。
空が暗くなり、風が音を立てるなか、影絵のような京の森のシルエットが、神々しかったのが目に 焼き
付いています。
明治8年(1875年)に誠実学校として開校した正山小学校は、平成26年3月(2014年)に惜しまれ
つつ139年の歴史に幕を閉じました。
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←正山小学校校歌 2023年に大洲青年会議所にて制作された動画へのへのリンクです。
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宇和川(うわがわ)中学校 |
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辺鄙な田舎にあってひときわ目を引くモダンな校舎は、当時の大人の教育にかける熱意を感じます。
昭和22年(1947年)に開校した宇和川中学校は、私が通った頃の在校生は180名ほどだったと
思います。
赤い屋根、白い壁のまぶしい校舎はコンクリート造りではなく、木造でした。
4メートルほどの石垣を積んだ上に立つ校舎は、周りにフェンスはおろか、ガードレールさえあり
ませんでしたが、転落したものはいませんでした。
朝礼で並んだら生徒でいっぱいになる狭い校庭でしたが、みんな工夫して遊んでいました。
体育の授業は、事実上できないので、川の対岸1kmほど上流にあるグラウンドまで移動をして
いました。
私が3年生になる昭和35年(1960年)に統合され、 13年の歴史に幕を閉じました。
閉校後も、校舎は地元の企業に活用されていましたが、2020年頃に解体されました。
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2年間だけのための教室 |
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昭和22年度生まれの生徒は大幅に増加し、教室が不足しました。
閉校を間近かに控えながらも、2年間だけのために用意してもらった教室です。
それまでは1学年1クラスだったので、「〇年」というクラス名でしたが、昭和22年度生まれだけは
「A組」「B組」ができました。
新しい教室は「B組」に割り当てられ、私は「1年B組」そして進級して「2年B組」を同じ仲間と
過ごしました。
敷地が高さ4メートルほどの石垣の上にあったこともあって、下の広場(ドッジボールができる
程度の広さ)にせり出すように建てられていたのを思い出します。
この下の広場では「技術家庭」で、オート三輪を運転する授業があり、とても楽しみでした。
当時は、男子は「技術」、女子は「家庭」を選択するようになっていました。
大雨の後などで、肱川が増水すると教室の下には濁流が流れていました。
釣り糸を垂れると魚釣りも楽しめそうでしたが、実行した者はいませんでした。
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裏の県道から |
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校舎の横から後ろに、半円を描くようにぐるっと走る愛媛県道32号線。
徒歩で通う私が、登校時最初に目にするのはこの光景で、 宇和川中学校を思う時、真っ先に
目に浮かんできます。
2階の右が音楽室で、教室に置かれたベートーベンの胸像と、ピアノの上にあったメトロノームが
記憶に残っています。
音楽の先生は女性で、ふざけてばかりだったあの時を今になって反省しています。
下校時、先生か生徒なのか、練習をするピアノの旋律がよく聞こえていました。 今も耳に残っているのは、 ♪春のうら〜ら〜の隅田川♪ と歌う「花」の演奏です。
家の手伝いがあって、帰宅を急ぐ私を見送ってくれるこの旋律は大好きでした。
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←文部省唱歌「花」 フリーソフト「Studio ftn Score Editor」で作成しました。
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