豊田市渡刈町  明治用水の終点探訪 自治区情報

 この明治用水の終点探訪記は、 平成21年11月28日に実施された、明治用水用土地改良区の企画(明治用水の終点探訪と西井筋緑道ウォーキング) &渡刈自治区行事に参加した町民からの報告です。
 明治幹線本流域の渡刈町民が、明治用水の終点を探訪できることは大変に有意義な計画です。
当日は、渡刈自治区の勝田政治 区長、浅井淳一副区長以下15名の参加で、明治用水終点探訪を楽しみました。 ご覧ください。
@出発
水土里ネット 明治用水のマイクロバスで、渡刈区民会館を9:00に出発しました。 当日は、明治用水用土地改良区 地域活動室の田中さんと堀田さんの案内で、 水源頭首工を確認し、用水幹線、西井筋、中井筋、東井筋の下流を探訪しました。

注)水土里(みどり)ネット 明治用水とは、明治用水用土地改良区の愛称

・全国水土里ネット
・水土里ネット愛知
・水土里ネット豊田(枝下用水)
などがある。



A明治用水幹線水路 水源管理所
お馴染みの水源ダム右岸の管理所です。

この管理所は、どのような機能を果たしているか、初めての見学でもあり楽しみです。

以下、見学記として順次説明します。


B明治用水の概要説明(写真クリック拡大)
明治用水土地改良区の田中さんから説明をうけました。

明治用水は、渡刈町内を南北に分断して流れる幹線本流と少し下流から分水する西井筋、 安城市小堤町あたりで分水する中井筋と東井筋の各本流からなり、 更に先々で必要に応じた分水が各所で行なわれ、碧海台地を隈なく潤し、総延長は360Kmに及ぶ。
用途は、農業用水と工業用水です。

《取材メモ》
右岸取水量
・農業用水:供給=30t/秒, 需要=21t/秒
・工業用水:供給=4t/秒, 需要=2.2t/秒
左岸取水量
・農業用水:供給=6.73t/秒
・水道用水:供給=1.23t/秒



C右岸取水口
明治用水は、右岸取水口から4連に分かれた沈砂池と調整水門をへて幹線水路へ導かれます。

《参考情報》
左岸取水口からは、明治導水路で巴川と合流し、R248葵大橋上流の渡刈サイフォンで矢作川底を横断し、、 さらに、岡崎市渡町あたりの天白サイフォンで矢作川底を横断し、 岡崎市の南部幹線水路を流れ、幸田浄水所、琴沢調整池をへて、吉良幹線水路に至り、 幸田町、吉良町、幡豆町を潤し、水道水としても利用される。
このエリアを矢作川総合南部地域という。



D水管理施設
明治用水管理システムは、この中央監視制御室から頭首工の操作監視と、分水工、 制御門18カ所の操作監視および分水工10カ所の監視を行い、
これにより、取水、配水の管理を正確かつ迅速に行う。




E水源管理所庭園風景
水源管理所の庭は、手入れも眺めも良く、
ここから見る石積み堰堤時代の旧導水堤と対岸の岩倉地区の山並はワンダフルです。



F刈谷市街の緑道散策
西井筋の流れは、今では知立と刈谷の市街地中を通ります。

明治用水土地改良区は水路を地下に埋設し、市街地にせせらぎを流す歩道を通して、アクアモール(全長1030m) と名付けた。アクアは水、モールは歩行者優先商店街の意、

実際に歩いてみると、このせせらぎは市民に潤いを与えていることが良く分かりました。
年末も近く電飾の準備も進んで、夜間も楽しめそうでした。



G緑道の柵
緑道の柵には、明治用水頭首工のイラストです。

このせせらぎも、刈谷地区の工業用水も、農業用水も、明治用水の恩恵と刈谷市民に告げていした。


H西井筋終点附近(中市分水地点)
西井筋終点は、刈谷市司町で、逢妻川の平成大橋の下流辺りです。そこは、衣浦大橋の北5Kmです。
中市分水地点では、西井筋最後の新田も広がります。周辺は、刈谷の工業地帯の下流ですが、 用水は、最後の最後まで有効に活用されていました。 この辺は、悪水と合流のようです。

・古文書によれば、
一、西井筋に関せる村落左に記す。

廣畔新郷 和会村 吉原村 若林村 里村 来迎寺村 牛田村 知立村 一ツ木村 上重原村 築地村  下重原村 小山村 高津波村 熊村 刈谷村 元刈谷村 八橋村

計十八ヶ村

右水末刈谷村元刈谷村境界を渉り海面へ注ぎ出づ。


I中井筋終点附近(高浜市大山公園西)
中井筋終点附近をバスで車窓見学です。

この流れは、中井筋用悪水と思われます。終点は、衣浦大橋附近の青木町、境川河口に注ぐ、


J中井筋終点附近(元、水車場)
かって、この落差を利用して水車を回し、穀類を臼でついたという。
現在は、水路の上は新興住宅団地、

・古文書によれば、

一、中井水路に関する村落(左)に記す。

西加茂郡今 村 渡刈村 鴛鴨村 永覚新郷 上埜村 北野村 橋目村 福受新郷 小針村 今 村  大浜茶屋村 宇頭茶屋村 柿碕村 篠目村 桝塚村 野田村 半城土村 西中村 刈田村 八っ田村  箕輪村 赤松村 福釜村 榎前村 和泉村 根崎村 東端村 西端村 高取村 高棚村 高須村

計三十四ヶ村

以上の村落へ渉漑(しょうがい)し、 其果流落口、高浜村地内字蛇抜へ至り海新田の中に於いて水車を設け其馬力数斛(ゴク)の 穀類を春搗(トウ・つきうすでつく意)して限らず。而して海に注ぐ。

注)斛(ゴク)とは、容量の単位、1斗(10升)の10倍、


K森前公園(高浜かわら美術館)
11:34 高浜かわら美術館に到着、併設の公園で持参の弁当で昼食をとり、 公園内にある塩焼瓦窯、かわら美術館ロビーなどを見学しました。


L東井筋終点(寺津港)
矢作川大橋を渡り、平坂入り江の奥の寺津港です。

当日の参加者15名での記念写真です。


M東井筋終点(寺津港)
西城用水の落ちる寺津港

東井筋が矢作川の米津橋上流500m地点の西城用水サイフォンで矢作川底を横断すると 西城用水と名が変わる。
それは、西尾城の西側を流れるので、そう呼ぶと説明がありました。 安城市藤井町に西城用水記念碑が建つ。



N東井筋終点(寺津港)
西城用水の落ちる寺津港、木製蓋の工夫が面白い。

・古文書によれば、

一、東井水路に係る村落左に記す。

安城村 大岡村 別郷村 東別所村 西別所村 山崎村 北山崎村 宇頭村 尾崎村 堀内村 古井村  桜井村 城ヶ入村 米津村 寺領村 野寺村 小川村 姫小川村 上条村 藤井村 南中根村
幡豆郡新渡場村 同と戸ヶ崎村 同鶴城村 同伊藤村 同上町村 同下町村 同法光寺村 同小間村  同住崎村 同志貴野村 道光寺村

計三十二ヶ村

以上の村落へ通渉し、遍く灌漑の用に充ちて、其末平坂港へ注ぎ落ち、衣ヶ浦湾水に入る。


O西城用水サイフォン(矢作川横断)
この写真について明治用水用土地改良区の田中さんから説明をうけました。

当初の横断は、写真の右のように矢作川の上を木製の水路を渡し流した。 しかし、耐久性に問題があり、明治36年(1903年)に、日本で最初に造った鋼管で、 川底を流すように改良工事が行なわれた。
その時の貴重な写真です。

その後、昭和40年(1965年)に鉄筋コンクリート製のPC管を採用し、現在に至る。

《取材メモ》
日本初の鋼管について、
後日、土地改良区の田中さんから電話でお聞きした情報によると、 日本鋼管が最初に製造した直径1.27mのリベット打鋼管で、 名古屋から牛車で運んだそうです。 過日、日本鋼管の博物館長が尋ねて来て、当時の鋼管を探しているという。



P弥厚公園
安城市和泉町の県道R12沿いに、安城 歴史の散歩道の案内です。 県道の東側の明治用水発案者の都築弥厚を記念する”弥厚公園”に立ち寄りました。

県道の西側には、江戸初期の文人、漢詩の第一人者の石川丈山邸址がある。


Q都築弥厚翁の銅像(写真クリック拡大)
弥厚公園には、都築弥厚翁の立派な銅像が建っています。

彼は、和泉村の地主で酒造を営み、代官をつとめていたが、農民の苦境を救うために、 およそ200年前の文化の頃、矢作川の水を碧海台地に導いて、 大規模な新田開発をおこなおうと最初に江戸幕府に嘆願書を出した。


R岡本兵松翁 記念公園(写真クリック拡大)
帰路、 明治用水開鑿の功労者 岡本兵松翁の記念公園に立ち寄りました。

都築弥厚翁没後39年、岡本兵松は弥厚翁の意志を再興しようと伊豫田与八郎の計画と合体した 用水計画を明治8年(1875)愛知県に届け出た。

《取材メモ》
更に、功労者の銅像は、
伊豫田与八郎翁(豊田市立畝部小学校)、
岡田菊次郎翁(水源神社)
に祀られる。
他多くの先人が努力して明治13年4月18日に新水路の完成を祝い、その名を明治用水と称する。



S岡本兵松翁銅像
立派な銅像が建っていました。





(21)明治用水の終点(水土里ネット配布資料抜粋)


《探訪雑感・・・一筋の流れ・・・》
この度は、有意義な終点探訪を企画していただいた明治用水土地改良区の皆さんのお陰で、 町民懸案の『用水終点の謎』が初めて解けた思いです。ありがとうございました。

河口を探訪して、”一筋の流れ”を碧海台地へ"先達の思いを再確認できました。
かって、矢作川は水運で栄えた。和泉村の都築弥厚も自社の酒樽を帆掛け舟に載せ、 遡上したと思われます。

この豊かな流れの一筋を、終日”はねつるべ”で水を汲む村民のもとへ届けたい。 その格差是正の思いは、私財を投げ打って、世間の反対と格闘しながら笑いものになっても進められたという。

”一筋の流れ”があれば、良質の米が安く調達でき大儲けできるといったやましい思いはない。 100年先を見据えての他の利を貴ぶ思いであったと思う。

彼は、一筋の流れに必要な矢作川の落差25m/延長37Km(平均勾配0.76m/Km)に着目したと思われる。 その地点が、現在の豊田市水源町&山室町である。現在は、水源ダムでかさ上げされ落差31m、

注)落差について、 矢作川落差断面図、 中井筋落差断面図をクリックしてご覧ください。 (パソコンソフトのカシミール3Dで解析)

彼は、この思いを実現できなかったが、彼の志を継ぐ後人を遺した。

後人の努力で、この落差が活かされ、一筋の流れを生み、碧海台地の縁と尾根を巡りを、 延べ360Kmの灌漑網を開鑿した。

村民の困窮を救いたい、新田開発を成し遂げたい一身で、多くの美田が開拓されましたが、 現在は、休耕田や放棄田や転用地が目立ちます。先達に申し訳ない思いでバスの中から風景を眺めつつ 河口を確認しました。

河口域は、用水と悪水が合流し、それぞれに役目を終え、三河湾に注ぎます。 晩秋の灌漑用水は僅かと思いますが、かなりの水量(悪水を含む)の放流の様子も見ることが出来ました。 近年の工業用水(夏季で約10%)の影響もあると思われました。

明治用水は、明治維新と共に殖産新興の掛け声もあり、大成し現在があります。 日本デンマークが工業地帯に変貌する今、用水の用途も変わります。

用水の需要も供給量をかなり下まわります。100年先を見通した、明治用水の有効活用に向けて、 碧海台地の自然回帰の為に、人に優しいせせらぎや、オープン水路の拡大(温暖化抑制)、 ビオトープエリアの創設、矢作川浄化連携活動など地球環境を考えた土地改良区の活動が継続されることを願い 終点探訪記をお届けします。 

おわり、 2010.1.18 編集者 渡刈町 岡田邦雄

《参考資料・当日配布された下記の資料および電話取材メモによる》
@明治用水の終点探訪と西井筋緑道ウォーキング しおり・・・ H21.11 明治用水土地改良区編集
A明治用水(パンフレット)・・・明治用水土地改良区編集
B明治用水頭首工(パンフレット)・・・明治用水土地改良区編集
C城下町刈谷と明治用水”散策”・・・明治用水緑道と水利用協議会 2007.3企画編集


関連リンク・・・ 《明治用水土地改良区 》

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