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水土里ネット 明治用水のマイクロバスで、渡刈区民会館を9:00に出発しました。 当日は、明治用水用土地改良区 地域活動室の田中さんと堀田さんの案内で、 水源頭首工を確認し、用水幹線、西井筋、中井筋、東井筋の下流を探訪しました。 注)水土里(みどり)ネット 明治用水とは、明治用水用土地改良区の愛称
・全国水土里ネット A明治用水幹線水路 水源管理所 お馴染みの水源ダム右岸の管理所です。 この管理所は、どのような機能を果たしているか、初めての見学でもあり楽しみです。 以下、見学記として順次説明します。 B明治用水の概要説明(写真クリック拡大) 明治用水土地改良区の田中さんから説明をうけました。
明治用水は、渡刈町内を南北に分断して流れる幹線本流と少し下流から分水する西井筋、
安城市小堤町あたりで分水する中井筋と東井筋の各本流からなり、
更に先々で必要に応じた分水が各所で行なわれ、碧海台地を隈なく潤し、総延長は360Kmに及ぶ。
《取材メモ》 C右岸取水口 明治用水は、右岸取水口から4連に分かれた沈砂池と調整水門をへて幹線水路へ導かれます。
《参考情報》 D水管理施設 明治用水管理システムは、この中央監視制御室から頭首工の操作監視と、分水工、 制御門18カ所の操作監視および分水工10カ所の監視を行い、 これにより、取水、配水の管理を正確かつ迅速に行う。
E水源管理所庭園風景 水源管理所の庭は、手入れも眺めも良く、 ここから見る石積み堰堤時代の旧導水堤と対岸の岩倉地区の山並はワンダフルです。 F刈谷市街の緑道散策 西井筋の流れは、今では知立と刈谷の市街地中を通ります。 明治用水土地改良区は水路を地下に埋設し、市街地にせせらぎを流す歩道を通して、アクアモール(全長1030m) と名付けた。アクアは水、モールは歩行者優先商店街の意、
実際に歩いてみると、このせせらぎは市民に潤いを与えていることが良く分かりました。 G緑道の柵 緑道の柵には、明治用水頭首工のイラストです。 このせせらぎも、刈谷地区の工業用水も、農業用水も、明治用水の恩恵と刈谷市民に告げていした。 H西井筋終点附近(中市分水地点) 西井筋終点は、刈谷市司町で、逢妻川の平成大橋の下流辺りです。そこは、衣浦大橋の北5Kmです。 中市分水地点では、西井筋最後の新田も広がります。周辺は、刈谷の工業地帯の下流ですが、 用水は、最後の最後まで有効に活用されていました。 この辺は、悪水と合流のようです。
・古文書によれば、 廣畔新郷 和会村 吉原村 若林村 里村 来迎寺村 牛田村 知立村 一ツ木村 上重原村 築地村 下重原村 小山村 高津波村 熊村 刈谷村 元刈谷村 八橋村 計十八ヶ村 右水末刈谷村元刈谷村境界を渉り海面へ注ぎ出づ。 I中井筋終点附近(高浜市大山公園西) 中井筋終点附近をバスで車窓見学です。 この流れは、中井筋用悪水と思われます。終点は、衣浦大橋附近の青木町、境川河口に注ぐ、 J中井筋終点附近(元、水車場) かって、この落差を利用して水車を回し、穀類を臼でついたという。 現在は、水路の上は新興住宅団地、 ・古文書によれば、 一、中井水路に関する村落(左)に記す。 西加茂郡今 村 渡刈村 鴛鴨村 永覚新郷 上埜村 北野村 橋目村 福受新郷 小針村 今 村 大浜茶屋村 宇頭茶屋村 柿碕村 篠目村 桝塚村 野田村 半城土村 西中村 刈田村 八っ田村 箕輪村 赤松村 福釜村 榎前村 和泉村 根崎村 東端村 西端村 高取村 高棚村 高須村 計三十四ヶ村 以上の村落へ渉漑(しょうがい)し、 其果流落口、高浜村地内字蛇抜へ至り海新田の中に於いて水車を設け其馬力数斛(ゴク)の 穀類を春搗(トウ・つきうすでつく意)して限らず。而して海に注ぐ。 注)斛(ゴク)とは、容量の単位、1斗(10升)の10倍、 K森前公園(高浜かわら美術館) 11:34 高浜かわら美術館に到着、併設の公園で持参の弁当で昼食をとり、 公園内にある塩焼瓦窯、かわら美術館ロビーなどを見学しました。 L東井筋終点(寺津港) 矢作川大橋を渡り、平坂入り江の奥の寺津港です。 当日の参加者15名での記念写真です。 M東井筋終点(寺津港) 西城用水の落ちる寺津港
東井筋が矢作川の米津橋上流500m地点の西城用水サイフォンで矢作川底を横断すると
西城用水と名が変わる。 N東井筋終点(寺津港) 西城用水の落ちる寺津港、木製蓋の工夫が面白い。 ・古文書によれば、 一、東井水路に係る村落左に記す。
安城村 大岡村 別郷村 東別所村 西別所村 山崎村 北山崎村 宇頭村 尾崎村 堀内村 古井村
桜井村 城ヶ入村 米津村 寺領村 野寺村 小川村 姫小川村 上条村 藤井村 南中根村 計三十二ヶ村 以上の村落へ通渉し、遍く灌漑の用に充ちて、其末平坂港へ注ぎ落ち、衣ヶ浦湾水に入る。 O西城用水サイフォン(矢作川横断) この写真について明治用水用土地改良区の田中さんから説明をうけました。
当初の横断は、写真の右のように矢作川の上を木製の水路を渡し流した。
しかし、耐久性に問題があり、明治36年(1903年)に、日本で最初に造った鋼管で、
川底を流すように改良工事が行なわれた。 その後、昭和40年(1965年)に鉄筋コンクリート製のPC管を採用し、現在に至る。
《取材メモ》 P弥厚公園 安城市和泉町の県道R12沿いに、安城 歴史の散歩道の案内です。 県道の東側の明治用水発案者の都築弥厚を記念する”弥厚公園”に立ち寄りました。 県道の西側には、江戸初期の文人、漢詩の第一人者の石川丈山邸址がある。 Q都築弥厚翁の銅像(写真クリック拡大) 弥厚公園には、都築弥厚翁の立派な銅像が建っています。 彼は、和泉村の地主で酒造を営み、代官をつとめていたが、農民の苦境を救うために、 およそ200年前の文化の頃、矢作川の水を碧海台地に導いて、 大規模な新田開発をおこなおうと最初に江戸幕府に嘆願書を出した。 R岡本兵松翁 記念公園(写真クリック拡大) 帰路、 明治用水開鑿の功労者 岡本兵松翁の記念公園に立ち寄りました。 都築弥厚翁没後39年、岡本兵松は弥厚翁の意志を再興しようと伊豫田与八郎の計画と合体した 用水計画を明治8年(1875)愛知県に届け出た。
《取材メモ》 S岡本兵松翁銅像 立派な銅像が建っていました。
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