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作成日 21/10/2024
若林八幡宮・・・・「若林交流館講座」資料より

  (1)社格

    九等級 旧指定村社

(2)由緒

  若林小左衛門が一村を管理し、18戸の産土(うぶすな)神として八幡宮を天喜2(1054)年に勧請し奉り、社殿を逢妻川の辺の小高い丘に建てたのが始まりといわれる。文安3(1446)年、千葉三十郎(都築三十郎)という人物が蓮如上人の請によって、石川政康らと共に武蔵国都筑郡(現横浜市都筑区)から移り住み社殿を改築し、さらに明応年間に本多四郎左衛門親平が上ノ山(かみのやま)に城を築いた際に、社殿を大修築したという伝承がある。
  その後、天正9年都築半右衛門が氏神八幡宮社殿を建て、寛文年間稲垣信濃守が代官を参拝させ荘厳な祭典を執行させた。
  享保5(1920)年、代官及び村役人等十名は八幡宮の社額を奉納し、また安永5(1776)年都築利左衛門(灯籠の文字は都筑理左衛門となっている)は石灯籠二基を寄進したという。
  明治5年村社に列し、明治39年神饌幣帛供進の神社に指定された。
  
    関連リンク:ルーツ
  拝殿は昭和40(1965)年に改修されているが、本殿は明治11(1878)年に改修されていから約130年が経過しており雨漏りや基礎の劣化が激しく今後想定される大地震に耐えられないため、平成22(2010)年度の本殿と祝詞殿改築工事が決定した。5月7日に仮殿遷座祭が滞りなく執り行われた。
(右上は、撮影許可された今回の神事の写真)
(3) 祭神

本殿(下の写真)
  主神:誉田別尊(ほむだわけ
     のみこと):応神天皇
  相殿右:天照大御神(おおひ
     るめむちのみこと)
  相殿左:天目一箇命(あまの
     めひとつのみこと):
     一言主神(ひとことぬし)
稲荷社(下の写真)
 蒼稲魂命(うがのみたまのみこと):
 穀物の神



秋葉社(下の写真)
  軻具突智命(がくつち):火の神
  猿田彦命(さるたひこ):天狗
  大山祗命(おおやまづみ):山の神

津島社(下の写真)
  素盞鳴命(すさのお):農神、疫神

(4)雨乞神輿(社宝)・・・右写真

  高さ約2m、重さ約100Kg、屋根には鯱、鬼神の鬼瓦、龍、四君子の花(松、竹、梅)が飾られ軒回りには学者・仏人・神官・七福神・龍頭80数個などと思われる。木目細かい彫刻がある。屋根には瓦がなく垂木の間から水が抜けるようになっており、作者は不明であるが江戸時代初期の作といわれている。
 古くから雨乞いの神様として有名な多度大社の分神といわれ分神は道中(約40km)一度も休まず夜明けまでに若林まで届けないとご利益が無くなるそうで、当時の人が苦労されて持ってこられたことが偲ばれる。
 昔は、非常に起伏の激しく雨も少なかったようで、当時の農民はこの神輿をかついで雨の降るのを祈ったと想像されます。大正の初め、干ばつの年に神輿を出して雨乞祈願をしたところ、大洪水となり被害が甚大となったため以後八幡宮の宝物殿に納められ70年にわたり門外不出となっています。
 その他、獅子頭が社宝と保存されている。
(5)若林神輿(19/10/2014)

  例祭の時に奉納される子供神輿はあったが、大人の担ぐ神輿はなかった。地域の絆を深めるひとつの手段として大人による神輿でお祭りを盛りあげようと住民有志が発案し、運営組織「若林神輿盛和会」も発足して、区民から寄付金を集め平成26年に半年の製作期間を経て完成した。
  欅づくりの重さ420kg、金色の鳳凰や唐獅子・竜などの装飾が施され大人50人で担ぐ神輿(富山みこし)となっている。御神輿に御神札を祀る御霊入れ(天照大御神・誉田別尊)神事後に町内を練り歩く(渡御)が、若林地区だけでは十分な人数が集まらず他からも応援に来てもらっている。
 御神輿が境内から出ることを宮出しと言い戻ることを宮入りと言う。各子供会の子供神輿も戻り全てが終わるといよいよ待ちわびた餅投げが始まり盛り上がる。右写真は宮入り(20/10/2024)
(6) 年中行事



1月1日 :歳旦祭 1月 :星祭

3月 :稲荷社祭    4月 :祈年祭

7月 :津島社祭 9月 :秋葉社祭

10月16日に近い日曜日 :例祭 10月31日 :神送り

11月15日に近い日曜日 :七五三詣 11月30日 :神迎え

12月 :新嘗祭 12月 :大祓

毎月16日 :月次祭 2月 :還暦節分会

  祈年祭は豊穣を祈る祭りで春に行われ、新嘗祭は単に収穫感謝の祭りというのではなく天皇が新穀をきこしめすにあたり「皇祖より新おもの」をいただかれる大きな祭りである。また、月次祭では月々の新鮮な野菜・果物をお供えして神様に感謝すると同時に国の隆昌と平和を祈る。
  例祭は、明治維新前まで旧暦8月15日であったが、その後今の例祭日に改められた。

(7)大鳥居

  昔、境内には木製の鳥居が、西、東、正面と三ケ所の入口に鳥居が立っていた。昭和19(1944)年の東南海地震で倒壊したが昭和27(1952)年3月氏子崇敬者より、高さ7m・回り2mという石造りの大鳥居が奉納された。当時この地方で一番大きく注目され今日に及んでいる。西と東の鳥居は、昭和35(1900)年津島社建立の時に撤去された。各神社の鳥居は、神明鳥居または明神鳥居が変形しつくられているが、八幡鳥居は明神鳥居が原型で横木(貫)の両端が二本の柱から出ている点が伊勢神宮(神明鳥居)と大きく異なるところである。
(8)境内で古い石造物(20/10/2024)
一番古い石灯籠は、本殿の中にあるもので元禄10年(1697)丁(ひのと)丑(うし)の7月吉日と刻まれている。(右写真) 2番目に古いのは、参道横にあるもので都築利左衛門の寄進という。
(9)神額(扁額)
若林八幡宮も八幡神(元々は農耕の神)を産土神として祀る神社で、昔から人と人とのつながりを大切にした村の八幡宮であった。鳥居・拝殿の神額の八幡宮の字体は、「幡」のつくりの「ノ」がない字であり「宮」も「口と口」の間の「ノ」がない字となっていることにお気づきでしょうか?これは昔からの字と言われているが、字体辞典(三省堂)によると「慶長(年号)頃には同様の字体が見られる」ことから誤字でもなく古い字体を重んじて使われていると思われる。尚、神社の記録よれば、享保5(1720)年に社額が奉納されたとありその時からの字体と思われる。
(10)

神馬(シンメ/ジンメ) (16/2/2023)

明治11年有志11名による奉納の記録から140年以上が経ち、表面の漆にひびが入り一部は剥がれ落ちる状態になっていました。これを見た崇拝者の方達から修復の声が上がり半年かけて全身の修復が終わり同時に傷みの激しい馬舎も修理を行い、お披露目とお祓いの神事が執り行われました。
高岡町誌によると昔は例大祭の日には、神馬を奉納したり素人による獅子舞・歌舞伎・相撲等の余興が行われたとある。

(11)

御朱印 (7/4/2023)・・・右写真

  社務所の開所日は、原則毎月1日と16日の9時~12時となっており参拝のあと社務所の受付で御朱印をお願いすることができます。
宮係の方が2年で変わるため以前頂いても2年以降再度お願いすると違った味の御朱印が増えるかもしれません。
①奉拝②若林八幡宮③参拝日④神社名の朱印⑤八幡宮の社紋がわかります。

(12)

手水舎 (1/1/2020)

神社によっては、龍以外に鳳凰・亀・カッパ・白蛇のところもあるが、龍は神様として祀られるだけあり多くみられる。龍神様といっても白龍・黒龍・金龍・赤龍・黄龍と様々である。手水舎は、参拝する前に身を清めるため若林八幡宮も龍となったのだろう。それから昔の人達は、元旦の初日の出をこの手水舎の真ん中で拝むことができるよう考えられたのだろうか(写真は'20/1/1撮影)。

初日の出(手水舎から)
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