閣議決定

教員採用  リモート授業   無言清掃    英語の教科化    大学スポーツ

嘘つきの大人たち 教育勅語  サプライズ  安倍政権  還暦同窓会

道徳の教科化 被告と被告人  入学式・卒業式   教員の部活依存症

DJポリス  マスク   貧乏人同士の引っ張り合い  大阪維新の会Ⅱ  電気事業

大阪維新の会Ⅰ  東日本大震災  今の中学生   青森・おもしろ学校

学校の常識は世間の非常識  政党助成金  教員免許更新制Ⅳ  教員免許更新制Ⅲ   

ばらまきに注意  地域の行事   労働者派遣   教員免許更新制Ⅱ 

現代江戸考   数字表記   ガソリン値上げ    全国学力調査

厩戸皇子  教員免許更新制   宮本警部  教育再生会議  駐車場問題

日の丸・君が代判決   少年事件Ⅱ  中二女子殺害事件  WBC   メール

耐震強度偽造事件  県費旅費   中教審   総選挙  万博   韓流ブーム

同級生殺害事件  貧乏人いじめ  フセイン  西安事件  ゆとり教育  少年事件

修学旅行  ライブ  アメリカは嫌いだ  教育基本法見直しは必要か  携帯電話

無責任  人口問題 給食  ギリシア文明と日本  研修とは  性楽説

ぜいたくは素敵だ  学力低下?  少年犯罪  成人式   since 2002.2

2022年9月 閣議決定
 「内閣府設置法に内閣府の所掌事務として国の儀式の事務に関することが明記され、閣議決定を根拠として行うことができる。」と、政府は安倍元総理大臣の「国葬」の根拠について述べている。安倍政権の頃から、やたら「閣議決定」という言葉を耳にするようになった。警備費別で2億5千万円も国家予算から支出する国の儀式について、国会での審議なしで開催を決めてよいのか。
 閣議は内閣が意思決定するための会議で、内閣総理大臣が議長となり各国務大臣から提出された案件を討議し、閣議決定は全員一致の形式をとるというもの。内閣総理大臣は各国務大臣を任命し罷免もできる。そのような組織であるため、任命された国務大臣が閣議で反対することなんてあるのか。仮に反対したとしても、その国務大臣を罷免し、その後に全員一致という形にすればよいので、閣議決定は必ず成立する。
 もともと予算案提出において、各省庁の希望額が対立するなかで、その調整を行い、最終的に閣議決定して、国会に予算案を提出する。この流れにおいての「閣議決定」は意味がある。
 2019年に行われた天皇の即位の礼では、28億5千万円の警備関係費用だったようだ。それと同等としても30億円を超える国家予算が使われる。それが「閣議決定」がされたのだ。「閣議決定」にそこまでの権限を持たせると、三権分立の基本が崩れてしまう。(9/7に16億円と発表されたが、大金であることには間違いない。)

2022年2月 教員採用
 大学に勤め、小学校教員の養成に関わっている。今年度はうれしいことに担当する4名の学生のうち、1名が出身県の教員採用試験に合格し、残り3名もこの1月から2月初旬に早々と出身県や愛知県内の市で常勤講師としての採用が決まった。そのうち、長野県で教育実習を行った学生には、実習校の校長から「こちらで講師登録をしておくから」と電話があり、学生は登録手続きをせずに済んだ。残りの2名にも、学生が登録していない近隣の教育委員会から「講師登録してくれないか」と依頼する電話があった。「教員が足りない」という報道があったが、まさにそのことを証明するような動きが私の周囲で起きている。
 なぜ、教員が足らなくなったのか。それは、小学校全学年のクラス定員を段階的に35人とすることになり教員採用枠が増えたが、教員志望者が減ってきたからである。その原因はといえば、第一次安倍内閣による10年ごとの教員免許更新制、教員評価制(都道府県によっては給与に反映させる方式)、さらに4%の調整手当支給で残業手当なし(給特法)、部活はサービス残業が世間に広まり、教員のブラックな勤務実態を多くの学生が知ることになったからである。今年の通常国会において、教員免許更新を廃止する予定らしいが、どれだけの効果があるか…。
 いじめや不登校といった教育問題が山積するなか、教員を締め付けることしかしてこなかった政府の責任は大きい。教員の労働条件(給与や勤務時間)がよくなり、教員という職に誇りが持てたら、自ずと教員志望の学生が増える。国際学力比較調査「PISA」において、常に上位にランクされるフィンランドでは、教員は大学院で修士号取得しなくてはならないが、給与水準は高く、教え方は教員に任されている。教育こそ、未来の社会づくりの基礎なのだ。

2020年8月 リモート授業
 コロナ渦のなか、大学においてはリモート授業が中心に進められている。私も本務校と非常勤の大学で、それぞれ「teams」と「zoom」を使ってのリモート授業を行っている。リモート授業を行って感じることは、終了時の疲労感が通常の対面授業よりも強いということだ。対象の学生たちが見えていないため、学生たちがどんな反応をしているのかが、まったくわからない。全体の雰囲気をつかめないまま進めている。これは疲れる。
 「teams」と「zoom」を使っての会議なら、少人数の参加者が顔を出して話し合うことは可能だが、授業の場合、授業者が用意する教材や資料を画面共有するため、まずその画面が中心となる。さらに、授業者の説明や指示の音声を聞きやすくするため、学生たちにはマイクをミュートすることをお願いしている。参加者の多くがマイクをオンにしていると、ハウリングがおきてしまうからだ。一人の部屋でマイクに向かって説明していくのだが、学生からの「挙手」は少なく、たいていはこちらから指名することになる。指名された学生はマイク(+カメラ)をオンにして私の質問に答えるという1対1のパターンになる。
 双方向のオンライン授業というが、集団で自由に話し合うことは難しい。だから、対面授業で得られる「気づき」からの学びの共有に発展してことはほとんどない。学生からの疑問や意見で「寄り道」することもなく、指導案どおりに授業は進んでいく。リモート授業は新しい形の授業で推進していくべきなんて声があるが、とんでもない。一方的に教えることは教育のすべてではなく、文科省のいう主体的な学びからも遠くなる。
 リモート授業のなかでも、衛星放送やインターネットなどで映像を見る授業は完全な一方通行型である。遠隔地や不登校生徒へ提供する授業や一定の内容を授業名人がわかりやすく解説する授業としては有効だが、参加者が一緒に授業を創り上げていくことなんてできない。
 リモート授業になって、出席率は高くなった。指名された学生がマイクオンしたときに、駅のホームの案内が聞こえてきたこともあったが…。テストもリモートで行った。学生はすべて調べられる状況のため問題を工夫してみたが、単位を落とす学生は一人もいなかった。これは喜ぶべきことかもしれないが、学生たちにどれだけ力がついたのか疑問である。
 早くコロナ渦が治まってほしい。ふつうの授業がしたい。リモート授業なんてこりごりだ。

2020年3月 無言清掃 
 
2010年頃だったと思う。私は中学校教員だった。他学年が変な清掃をしているらしいとの情報を得た。1学年8クラスの大規模な中学校では、各学年単位に事が進む。そのため、他学年の状況はすぐには伝わらないことが多いのだ。
 その変な清掃とは、清掃中には一切声を出してはいけないという「無言清掃」であった。誰かが長野県から仕入れてきたらしい。無言ということは生徒たちに話をさせない。生徒たちが話をしないということは清掃に集中できるということから始まったのであろう。
 学校の清掃の時間といえば、生徒がよく叱られる時間の一つである。汚れるし、面倒くさいし、授業ではない解放感もあって、ついサボりたくなるのが清掃である。そこで、叱らないでもしっかりと清掃に取り組む指導法はないかと、清掃指導する側は模索する。指導方法を追求することは悪いことではない。
 しかし、その場合、ともすると、効果の即効性を求めてしまうがため、賞罰的な指導・調教的な指導・オカルト的な指導・子供だまし的指導が行われることがある。これらの指導では、自分たちの生活の場を自分たちできれいにしようという精神の育成ではなく、ご褒美を目当てにしたり、罰への恐怖から清掃をしたりと指導の本質がすり替わってしまう。
 教育活動のなかで、無言になり静かにする場面はある。どんなときに静かにすべきかを考えさせ、生徒たちが自ら静かにすべきか判断できるようにさせるのが教育である。今何をどのようにすべきかが生徒たちのなかではっきりとしている場合、生徒たちは集中して取り組む。集中すれば無言になり、静かになる。
 無言清掃は先に無言にさせ、その無言によって集中させようという方法である。それは強制的に集中させているだけのことであり、その強制に生徒たちが従うとき、効果は即効的に表れる。日々忙しさに追われている教員にとって、清掃の時間に注意しなくてすむということはとても有り難いことだ。長野県だけではなく、北陸地方や関東地方の学校現場にも導入されて、この無言清掃が広がってきている状況もわかる気がする。
 しかし、まずは無言にさせる。これはファシズムである。清掃は楽しんでやればよい。お掃除プロは掃除をすることが楽しくて、その道を究めることとなったと言っている。雑巾がけにしても、ほうきで掃くことにしても、それぞれに適した方法がある。「ここはこんなふうに拭くといいよね」とか「こちらの方向に掃いてね」とかというように、生徒同士で教え合ったり、担当の教員がアドバイスしたりして話をすることは、とても自然なことである。
 もっと言えば、歌を歌って清掃したってよい。当時、私は昇降口担当が多く、私も生徒も砂まみれになって毎日清掃していた。あるとき、当時流行っていたJポップを女子生徒たちが大きな声で合唱しながら、楽しそうに砂を掃き出していたが、「うるさい」なんて注意する気はまったく起こらなかった。とてもきれいに掃けていたのだ。
 無言清掃をさせられた生徒たちは、大人になったとき、自ら工夫をして身の回りをきれいにするようになるのだろうか。現場の教員の働き改革と同時に、お掃除改革もお願いしたい。

2019年4月 英語の教科化

 2020年度から、小学校5・6年生に週2時間の外国語科(英語)が導入され、これまで5・6年生で行ってきた週1時間の「外国語活動」(英語)が3・4年生から開始される。外国語教育(英語教育)が教育においてかなり重要であるらしい。
 中学校教員時代、私は社会科の教員であったが、臨時免許で英語を担当することがあった。そこで実感したことは、「外国語活動」的に、簡単な日常会話を話す・聞くというレベルでは、生徒たちが積極的に参加し楽しく授業ができる。しかし、2学期あたりから読む・書くという作業が多くなり、「三単現のS」なんて日本語にない文法が出てくると、つまずく生徒が増えてくる。さらに、中学校2・3年生ともなると、できる生徒とできない生徒の格差が拡大し、できない生徒にとっては英語の時間が苦痛の50分間になっているということだ。
 イギリスの植民地にされた国のように英語が公用語やそれに近い言語となっていて、英語を使わなければ生活に困るという状況なら、英語は定着する。我が国には日本語があり、生徒たちに英語を習う必然が受験以外にないのだ。衣料メーカーのユニクロが英語を社内の公用語にしたが、やはり、自然消滅したようだ。今では、英語学習や昇格時のTOEIC基準が求められることはないらしい。海外の店舗なら現地の言語が必要だが、日本国内なら正しい日本語を使うことの方が営業活動のレベルアップにつながる。
 小学校の英語科では、過去形や三人称も習うらしい。教科となれば、評価・評定され、そのためのテストも実施される。中学校1年生の後半から、英語や数学などで「落ちこぼれ」ていく生徒たちをいっぱい見てきた。英語の教科化は学習塾を繁盛させ、「落ちこぼれ」開始をさらに早めることになるのではないか。グローバル化とは、英語を話せることなのだろうか。地球環境や国際関係を常に意識することが重要なのであって、それは英語を話せなくてもできることなのだ。

2018年8月 大学スポーツ
 最近、アマチュアスポーツ界での不祥事が後を絶たない。至学館大学女子レスリング部監督によるパワハラ、日本大学アメリカンフットボール部監督による不正行為指示、同じく日本大学チアリーダー部監督によるパワハラ、ついでに日本ボクシング連盟会長の連盟私物化など、あきれる実態が次々と暴露されている。
 報道によって私たちが知ったのは最近だが、アマチュアスポーツのトップレベルにおいて、それぞれかなり前からパワハラが行われていたのだ。つまり、やっと最近になって、反旗を翻す人たちが出てきて、私たちがパワハラの実態を知ることになったといえる。そして、アマチュアスポーツのトップレベルの問題は中学校の部活の延長線上にあると、改めて感じた。
 中学校や高校の運動系部活(一部、文化系の吹奏楽部も含む)の問題点の一つに、顧問によるカリスマ支配的な部活管理が挙げられる。多くの場合、選手選択権は顧問にあるために、部員は忠実に顧問の指導に従う。顧問には絶対的権力が与えられ、カリスマ的支配ができる。授業や学級経営が上手くいかなくても、部活では気分よく指導できる。だから、部活指導の方に力が入る教員が中学校や高校では増えてくる。自ら長時間のトレーニングを課しているので、彼らにはブラック部活という自覚はない。
 前述の大学や連盟も、この構造とまったく同じである。スポーツなら、厳しさに耐えて粘り強く頑張るのが当たり前といわれる。確かに、一定のトレーニングを積まなければ、一流にはなれない。しかし、トレーニングに耐えて頑張ることが指導者の指導に耐えて頑張るということに、知らないうちにすり替わっているのではないか。自分の名誉・地位やカネのために、従順なプレヤーを指導する指導者たちが不祥事を起こしているのだ。
 スポーツの分野でも、民主主義が貫かれなければならないと思う。それは、指導者と友達感覚になるというものではなく、指導者と部員が話し合って決定し、その決定事項は必ず守るということだ。難しいことではない。

2018年4月 嘘つきの大人たち
 トラブルがおきて、関係する生徒に事情を聞くとき、少し昔は「まずは何があったか、自分から話してください」と促せば、多くの生徒は呼び出された状況を理解し、正直に事実を話してくれた。ここ数年は、そんな聞き方をしたら、自分が悪くないストリーを聞かされ、嘘の上塗りが始まってしまう。その結果、事実認定に至らず、トラブルが余計に泥沼化する。したがって、十分に調べたうえ、「何で、そんなことしたのかな?」と、残念だが、事実認定した前提で進めないといけないのだ。
 子どもたちには、「嘘つきは泥棒の始まり」と、大人たちが教えていかねばならない。しかし、日本の大人たち、なかでも、行政のトップにいる大人たちには、「正直の頭に神宿る」・「正直は一生の宝」ということにはまったく無縁のようだ。
 「私も妻も一切この認可にも、あるいは国有地の払い下げにも関係ないわけでありまして」という首相。それに呼応して、「刑事訴追の恐れがあるので、証言を控えさせていただきます」という国税庁長官。「記憶の限りではお会いしたことはありません」という審議官。セクハラ疑惑に「お店の女性と言葉遊びを楽しむようなことはある」という財務省事務次官。もう、あきれるばかりだ。これでは、正直な子どもたちは育たない。
 その一方で、首相夫人とのやりとりを証言した森友学園前理事長の籠池さん。「官邸の最高レベルが言っていること」という文書の存在を認めた文科省前事務次官の前川さん。首相秘書官が愛媛県職員に「本件は、首相案件」と語ったと記された文書は県職員が作成したものだと認めた愛媛県知事の中村さん。これらの人たちの行動に、少しは救われる思いになる。しかし、籠池さん夫婦への異常なほどの勾留長期化、前川さん学校講演への文科省の介入と、権力側は反省もなく、「裏切り者への報復」を続けている。
 悪いことをしても、嘘が見え見えでもそれなりの言い訳を考えれば逃れられると、日本の子どもたちが学習してしまわないか心配になってくる。

2017年4月
 教育勅語

  
森友学園の問題では、「首相夫人」名で問い合わせがあったからこそ、国有地を8億円もおまけすることができたのだ。金銭授受があったかどうかは闇の中だが、「忖度」はあったのだ。「忖度」は流行語大賞候補か…。安倍首相のお友達の学校法人・加計学園にも、36億円の土地が無償譲渡されている。これらの件はうやむやにしてほしくない。さらに、私が気になるのは、森友学園の幼稚園児による教育勅語暗唱に「首相夫人」が感動したということを受けて、感動云々は個人のレベルでは勝手だが、教育勅語が教育現場で扱われることの是非を国会で問われたとき、「問題なし」とした政府側の答弁だ。
 戦後、衆参両議院による決議で教育勅語は廃止された。当然である。「一旦緩󠄁急󠄁アレハ義勇󠄁公󠄁ニ奉シ…」、この文言により、「天皇陛下万歳」と多くの若者が戦争で命を絶った。前半に「父母ニ孝ニ兄弟ニ友ニ夫婦󠄁相和シ… 」と家族愛を述べているからよい(稲田防衛大臣)なんて、ヒトラーだって家族を愛していたからよいと同じだ。
 私が小学校教員のとき、100フィート運動でアメリから原爆時のフィルムを入手して映画化した「にんげんをかえせ」を小学生に見せた。そのとき、校長に、「勝手にやるな」とご指導を受けた。「日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚する」(日本国憲法前文)の精神にそった行動なので、ビデオ鑑賞は「問題なし」と、今でも思っている。
 「インターナショナル」や「友よ」といういよう革命歌をどこかの学校が校歌にしていたら、今の政府は何というのだろうか。人々が協力することを歌っているので、「問題なし」とするのだろうか。

2016年7月 サプライズ
 昨年は「還暦」とやらで、私自身はこだわってはいなかったが、周りの方々にいろいろと気を遣ってもらった。小学校時代の教え子たちの「還暦同窓会」は、一つ前の「MY綴り方」で書かせてもらった。その続きがあった。
 旭中学校では、さまざまなサプライズを受けた。社会の授業に行ったら、私の60歳誕生祝い会になっていた。いつ準備したのか、担任の先生の協力もあったに違いない。二クラスもお祝いをしてくれた。3月の最後の授業では、ご苦労さん会をこれまたサプライズで二クラスが催してくれた。生徒たちのメッセージを読むと目が熱くなった。最後の学年集会では、これまた突然のご苦労さん会が始まった。学年会議で、学年集会のことを話し合ったが、私のいないところで別メニューを学年スタッフで相談していたと、あとから聞いた。
 学年スタッフで行く学年旅行では、還暦祝いをいただいた。部屋での二次会では、私がギターを弾いているケーキが登場した。クール宅急便という手があったか…。終業式、女性教員はまとまってランチをとるということだったので、学年の男性で一緒にランチをとろうと決めた。その店に行ってみると、他学年の男性教員、校長・教頭など、旭中の男がみんないるではないか。花束をいただきました。サプライズといいながら、薄々気付いていることが多いのだが、すべてまったく気配を感じることなくサプライズされた。企画したスタッフと団結したスタッフに、感謝と敬意を表したい。

2016年1月 安倍政権
  安倍政権のよる安保法制の法制化は歴史に残るだろう。憲法9条違反が明確でありながら、集団的自衛権を認める法律を成立させた。文科省検定済みの中学校社会公民教科書にも、憲法は最高法規であり、国民の人権を守るために政治権力を制限する立憲主義の憲法であると書いてある。教科書でも教える民主主義を安倍政権は堂々と無視をし、安保法制を選挙公約に掲げずに、アメリカに言われたからと成立させた。この暴挙は、あのヒトラーのやり方と同じだ。
 人間としての資質も問題だ。国会で、野党議員の質問に対して、野次る。首相が野次るなんて、聞いたことがない。何と器の小さいことか。さらに、自民党はニュース番組の報道内容について報道機関に事情聴取をし、言論の自由にまでメスを入れてきている。安倍首相の演説を聴いていると、「らりるれろ」あたりの滑舌が悪い。少し前だったら、「あーうーの大平首相」というように、ときの首相に対して、報道機関の多少の「いじり」があった。安倍首相の滑舌が悪いなんて、メディアでは、一切出ない。これも、報道規制されているのではと、危惧の念を抱いてしまう。
 ヒトラーは、当時のドイツ国民の願い「ベルサイユ条約の破棄」を訴え、議会で多数を得た。国家社会主義ドイツ労働者党、これがナチ党の正式名称だ。実に巧妙だ。一見、労働者の立場に立った政党に思える。ドイツ国民は見事に騙された。多数を得たヒトラーは、ナチ党以外の政党の活動を禁止し、言論統制も行う。国民がおかしいと気付いた頃には、何もできなくなっていたのだ。そして、ヒトラーは、戦争、ユダヤ人への迫害へと暴走したのだ。歴史は「過ちを繰り返さないために」学ぶ。今の日本は、1930年代のドイツではないかとは、考えすぎか…。

2015年9月 還暦同窓会
 今年で60歳。それを小学校6年生のときに担任をした教え子たちが知ってくれていて、瑞鳳小学校6年2組・本地原小6年4組のメンバーがそれぞれに「退職祝いを兼ねた同窓会」をこの夏に開催してくれた。
 瑞鳳小のメンバーはもう46歳。36人のクラスで、県外からも駆けつけてくれ、20人をこえるメンバーが集まってくれた。「分数城の探検」とか家庭科での食品添加物の授業とか、みんなよく覚えていてくれた。各班でバンド演奏大会もした。そのテープがあったので、CDに焼き、プレゼントにした。そのまま全員が二次会にカラオケに行き、曲間に私のオリジナル曲「カイジュウロック」を歌ったら、見事に全員歌えた。全員フルネームで言えたし、みんな大人になったけど、あの頃にタイムスリップできた数時間だった。
 本地原小のメンバーも県外からの参加してくれ、20人をこえるメンバーが集まってくれた。41歳。NHKの「おはようジャーナル・ユニーク先生奮戦記」に主演したクラス。原始キャンプで空き地に1泊した。100マス計算が流行る10年以上前に、このクラスで100マスとか16回往復かけわり算なんてやっていた。しかし、彼らは「よく遊んだ」ということしか覚えていなかった。オリジナル曲の「カイジュウロック」・「おならブルース」・「いたずらばんざい」は、みんな完璧に歌えた。30年の空白があっても忘れないことってあるんだ。
 出身高校の還暦同窓会もあって、そこでは昔のバンド仲間でその頃のヒット曲を演奏することができた。100人を超える還暦仲間が大合唱してくれ、これもうれしかった。
 この夏は、忘れられない夏になった。瑞鳳小6年2組、本地原小6年4組のみんな、ありがとう。

2014年12月 道徳の教科化
 小中学校の「道徳の時間」から「特別の教科」への格上を2016年度より実施したいと、中教審が答申を出した。「教科」になれば評価や教科書が必要であるとなり、中教審は数値評価ではない評価と検定教科書を導入するとしている。
 戦前、「修身」という教科があり、国定教科書により「身を修める」教育が行われた。教育勅語が教科書の最初に載せてあり、戦後、GHQは「修身」を軍国主義教育とし、授業を停止させた。
 1958年、文部省は「道徳の時間」を特設した。道徳教育は社会科をはじめ各教科その他教育活動の全体を通じて行うこととされていたが、効果を上げていないというのが、特設する根拠であった。
 そして、2016年度からは「道徳科」に格上げされるようだ。教科化の根拠としては、道徳の時間が教科でないため、形骸化している。また、道徳教育の改善策は出尽くしており、活性化させるためには枠組みを変えるしかない。ということが挙げられている。
 私の小中学校の担任時代は、確かに道徳の時間は形骸化していた。それは、「道徳の時間」で道徳教育することは表面的で形式的な教育となり、きれいごとを並べる「お利口さん」をつくるだけではないかと思っているからである。つまり、ものの見方・感じ方・考え方・行動の仕方の指導は、学校教育の全体で行われるべきだと。国語科の作品の読み取りや作文、社会科の人類の歴史などは、子どもたちのものの見方・感じ方・考え方を鍛え、学校行事や学校生活での協力や責任を問うことは、行動の仕方の直接的な指導になるのである。この思いのもと、道徳の時間は形骸化させていたが、むしろ厳しい道徳教育を行っていたという自負がある。
 「道徳科」になった場合、文科省検定教科書が導入され、各地域で工夫されている副読本は消える。さらに問題なのは、評価である。教員一人で、40人の子どもたちのものの見方・感じ方・考え方・行動の仕方をどう評価するのか。現在の各教科の観点別絶対評価ですら相当あやしいのに。だから、数値ではなく文章でということなのであろう。文章評価だとしても、何をもとに「よく考えている」とか「できている」とか、評価するのだろうか。教科なら、あくまでも「道徳科」の時間内での評価になる。何かを見聞して、その話し合い活動で意見発表させたりや感想を書かせたりして、それを評価することになるであろう。活発な子どもや読解力のある子どもの評価はしやすいだろうが…。すでに行動の仕方の指導については、多くの学校が通知表の「所見」または「通信欄」で子ども本人や保護者に伝えている。道徳科の評価文と通知表の「所見」または「通信欄」との整合性も問われることにもなり、担任の仕事量がさらに増えるであろう。
 道徳の教科化に、私は反対である。戦後の民主教育の原点に立ち返り、ものの見方・感じ方・考え方・行動の仕方の指導を行う道徳教育は、「社会科をはじめ各教科その他教育活動の全体を通じて行う」ことこそ、「教育は、人格の完成を目指し、平和で民主的な国家及び社会の形成者として必要な資質を備えた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない。」(教育基本法 第1条 教育の目的)に近づくのである。

2014年8月 被告と被告人
 社会科の中学3年生で、「裁判」については授業時間3・4時間かけて教える。最後に、「民事裁判での『被告』と刑事裁判での『被告人』とは違うから間違えないでね。」とまとめる。しかし、テレビのニュースでは、「〇〇被告に懲役3年が求刑されました。」とテロップ入りで報道される。しかも、すべてのテレビ局が「被告」なので、「どっちが正しいの?」と生徒に質問されてしまう。罪を問う刑事裁判では「被告人」が正しい。しかし、すべてのテレビ局が「被告」と報じると、正しい方が負けそうになってしまう。
 なぜ、テレビ局各社はあえて間違えるのか。そうするのは、もともとは「呼び捨て」だったのが人権を考慮して「〇〇被告」と呼称し、「被告人」にしなかったのは「非国民」と聞き間違えることを避けるためというのがおもな理由のようだ。確かに、「ひこくみん」と「ひこくにん」は音が似ているし、「非国民」という言葉が「被告人」以上に人を軽蔑する時代があったことは間違いない。しかし、ラジオよりもテレビ、それもテロップがバンバン入る時代、聞き間違えることよりも、「被告人」を「被告」と間違えて報道することの方が罪深いと思う。「被告」は民事裁判で訴えられた側のことである。民事裁判は権利関係の揉め事を裁くわけなので、「原告」に訴えられたからといっても、罪を問われる「被告人」とは明らかに違う。
 刑事裁判に起訴されるまでは「被告人」ではなく「被疑者」なのであるが、「被疑者」も同様にマスメディアでは「容疑者」になってしまう。この理由も、「被害者」と聞き間違えることを避けるためということのようだ。「ひぎしゃ」と「ひがいしゃ」、これを聞き間違えるかどうか。再び言うが、テロップがバンバン入る時代である。これも、正しい表記にしてほしいと思う。

2014年5月 入学式・卒業式
 
勤務校の入学式よりも自分の子どもの入学式を優先し、年休をとった教員に対して、賛否両論が渦巻いた。基本的に年休を取得してのものなら法的な問題はないが、一年のスタートの時に担任がいないという状況はどうなのかという反対派の意見。いや、教員だろうと親としては我が子の入学式に出席することは当たり前という擁護派の意見。ディベートをするには「よい題材」になりそうである。
 私自身がもし同じ立場だったら、どうするか。まず、担任として入学式にいない「マイナス」と我が子の入学式に出席しない「マイナス」を比較する。入学式にいたって、だめなクラス経営をすれば「あの先生の担任はもう嫌だ」になるわけで、入学式一日は決定的なものではない。しかし、その「えっ、担任いないの」という「マイナス」を挽回するのには少々時間がかかる。だから、仕事の「入学式」を選択する。しかし、我が子が小学校の一年生のときは、まだ自立できていない時期だけに、不安だらけの子どもに誰かが寄り添う必要がある。これは親のどちらかが出席した方がよい。自分が参加するしかいない場合は、そもそも「一年生」の担任を引き受けない。
 今回のことで、多くの人が言わない「変化」について述べてみたい。むしろ、こちらが私にとっての本論である。入学式・卒業式は儀式的学校行事として、どこの学校でも必ず実施されている。卒業式は「卒業証書授与式」であり、その名のとおり卒業証書を渡す儀式であり、その「お上」の意識から、「日の丸」・「君が代」の強制問題が発生する行事にもなっている。そして、実態とずれてる形式的な「来賓」の話、延々と続く「来賓紹介」など、主役の児童生徒はじっとしていることが多く、「静かにする」・「よい姿勢で座る」ことを教員に要求される行事でもある。
 その入学式・卒業式に参加する保護者が年々増加している。卒業生と同じ数の椅子を用意していてはとても足らない事態が、ここ数年起きている。保護者席をよく見ると、両親はもちろん、なかには祖父祖母、さらには小さな弟・妹まで座っている。卒業生の歌がとてもすばらしく感動する場面もあるが、退屈な時間も多くのに…。小中学校の式での参加者増は、高校や大学の式にも多くの保護者が出席するということにも連動している。私の高校・大学の頃は、親は誰一人として来なかったが…。恥ずかしいから、来てほしくもなかった。
 この現象は何か。それだけ教育に熱心な親が増えたのか。いや、日常では、「もう少し親がしっかりとみてよ」なんて思うことが多い。親側としては節目に顔を出しての「免罪符」、子ども側は「幼稚化」のなかでの親依存度アップということか。そして、それは少子化で「子ども」が大事にされてきたことの証か。

2013年12月 教員の部活依存症
  中学校での課外活動である部活は、課外(カリキュラムの中にない)活動である。だが、朝の始業前・放課後に加え休日の練習と、中学生の生活の多くを占める活動になっている。それは顧問にとっても同様だ。給料は出ていない(わずかな手当が出るようにはなったが…)にもかかわらず、部活指導が仕事の中心になってしまっているのではないかと思われる教員もいる。(これが授業術が高まらない原因の一つになっている。)
 勤務ではないため、労働基準法に定める労働時間を大幅に超えて、部活の生徒たちを指導する。土曜も日曜もだ。ときには、練習試合や大会に遠征する。そんな時間や空間を共にすれば、より親密な人間関係を生み出す。もちろん、すべてがそうなるのではなく、顧問の部活運営方法や教え方について行けずに、転部したり退部したりする生徒もいる。部活を継続している生徒には、顧問の権威は絶大である。何と言っても、選手を選ぶ権限は顧問にあるのだから。
 しかし、一方では、部活内でのいじめは後を絶たず、多くの顧問を悩ましている。体育系はもちろん、文化系でも、部活では一元的な価値観になりやすく、技術力の高い生徒が上で低い生徒が下というような人間関係になりやすいからである。いじめは人間関係を上下でとらえ、上と思っている人間が下にとらえている人間に嫌がらせをする行為である。その集団が対等な人間関係を構築できるレベルまで教育的に高めてあれば、いじめは起きない。「心」の指導を疎かにし、いじめの現実を見過ごしたり見誤ったりすると、部活内いじめにあった生徒が不登校を起こし、困った親が学校や該当学年に相談に来ることになる。中学校のいじめに関する生徒指導の多くは部活から始まっているのだ。
 したがって、どの部活でも「心技体」が要求され、技術や体力のみならず、仲間を思いやる心も強調して指導している。部活内での「心」の指導はクラスでの「心」の指導と比べれば楽である。なぜならば、顧問の権威があり、顧問の指導には従うという基本構造があり、最後には、「退部」という選択肢があるからだ。嫌だったら、やめればいいのだ。
そんな現状のなか、特に最近感じるのが若い教員の「指導の部活依存症」である。部活とは無関係のクラスや校外での問題行動が発覚したとき、担当学年の生徒指導係が指導を行い、家庭連絡を取りながら、本人の反省を促す。もし、部活に入っている生徒なら、その顧問には指導内容を伝えることはあった。顧問はその内容を承知しても、すでに指導済みのことなので、さらに指導をするということはなかった。部活内での出来事ではないから。しかし、最近は、学年から「部活でも指導をお願いします。」とか、顧問が「部活で活動停止などのペナルティを科す。」とかの 「指導の部活依存」が起きている。いくら部活での指導が楽だからといっても、これは禁じ手である。部活外での出来事の責任を部活で取ることは、歴史的にもよく行われた「連帯責任制」と同様である。本人の反省は権威によってなされているのであって、本当に心から反省しているのかどうかは疑問である。こんなことを続けていると、教員の生活指導の指導力も低下していくであろう。

2013年7月  DJポリス
 ザックジャパンがワールドカップ出場を決めた夜、渋谷交差点に出場を喜ぶ大勢の若者たちが集結した。広くてスクランブルになっている渋谷の交差点で、行き交うときにハイタッチをするのが目的らしい。その交通整理に、警視庁(東京都警察)が出動し、その中に「DJポリス」と呼ばれ、車上からマイクで交通ルールを守るよう訴えた警察官がいた。その訴えが功を奏して、けが人や逮捕者が出なかったため、「DJポリス」さんは警視総監賞をいただいたそうだ。
 この件で思ったことは、日本のサッカーファンの若者たちは「お利口さん」で、外国のサポーターのような無茶はしないんだということ。「DJポリス」の「みなさんは12番目の選手です。」とか「私もワールドカップ出場を喜んでいます。」というような若者たちに共感を得るような語り口は、上から目線で注意を呼びかけるよりも有効であったということ。やはり、「北風」で無理矢理脱がそうとするのではなく、「太陽」の熱で本人がコートを脱ぐようにすることが、すぐれた指示の基本の一つであろう。
 しかし、気になることがあった。「DJポリス」は、後半になると、自分のことを「お巡りさん」と言い出した。そして、周囲の若者も「お巡りさん、お巡りさん。」と連呼し始めたのだ。「お巡りさん」とは「警察官」という用語が通じない幼児のための用語である。「DJポリス」は20代の警察官、渋谷に集まったのは20代・30代。普段は中学生の幼稚化にどっぶりつかっている私だが、東京の渋谷にも「幼稚化」現象が現れてきたかと、ため息が漏れた。

2012年10月 マスク
 昨年くらいから、気になり出した。学校でマスクをつけて生活する生徒が増えたのだ。しかも、暑い夏もずっとつけたまま。「風邪を引いたら、マスク」と昔から言われてきたが、以前は、マスクをつけている生徒は給食当番以外ほとんどいなかった。2009年、新型インフルエンザが流行し、学校でのマスク着用を強制した時期があった。このとき、使い捨てマスク需要が市場で高まり、色・形などが工夫された様々なマスクが登場し、マスクが進化してきた。マスク着用にファッション性が出てきたということがマスク着用者増の原因の一つであると思う。
 しかし、それだけではない。マスクをすると、特に今の使い捨てマスクは大きいため、顔の半分近く隠れることになる。見えている目だけで相手の表情を読み取ることは難しい。逆に言えば、表情をある程度隠すことができる。表情だけでなく、口にピアスをして、そのピアスを隠している中学生がいた。最近では、休み時間中に飴をなめて、授業中はマスクをしているという中学生も出てきた。
 職場では、「マスクを禁止したい」という声もある。しかし、風邪対策という大義名分がある以上、それは難しい。ふと職員室を見ると、マスクをしている職員が数人いる。そう、大人もよくマスクを着用するようになった。
 マスクという半仮面のおかげで、その人の感情が見られないようにし、「どうしたの?」なんて声もかけられないような希薄な人間関係がつくられていくのかなと、今後のことを心配しているのは私だけか…。

2012年5月 貧乏人同士の足の引っ張り合い
 「大阪ハッシン」の情報をメディアが優先的に採り上げている。組合嫌いな「ハシモト」さんは、職場にスポーツ備品があるとすれば、それは税金の無駄遣いでとんでもないことにする。 そして、多くの人が「そうだ」と賛同する。このくり返しで、世の中がギスギスし、どんどん悪くなってきたと思う。
 このハシズムの組合・公務員攻撃は、より良い労働条件への攻撃でもある。小泉改革から鮮明になった派遣労働の緩和で、非正規雇用が増加した。特に多くの若者たちが劣悪な労働条件におかれている。労働組合がなかったり、あっても御用組合であったりで、労働条件が向上する見込みもない。「こちらはこんなに悪いのに、公務員は何だ。」という思いがハシズムに賛同する土台になっている。
 福利厚生のため、社員同士で飲み会を開催する場合には一人あたり3千円を補助する企業がある。また、社員食堂での食事はすべて無料という企業がある。これが大阪市や府だったら、とんでもないことになるだろう。福利厚生の質を高めて、社員のモチベーションが上がることで企業の業績も上がれば、福利厚生に投資することは悪くない。税金の無駄遣いは許せないが、福利厚生は必ずしも無駄遣いになるのかどうか。前述の企業の財やサービスを我々は購入する。その企業が何に投資しようが干渉はしない。財やサービスのコストパーフォーマンスに納得できるかどうかだけだ。税金でも同じことだ。公共サービスが税金に見合うものになっているかどうかが重要なのだ。
 労働条件の低い労働者がやや上の労働者の足を引っ張り合って、低い労働条件の横並びで安心する。このように労働者の分断が進んでいく状況を見て、きっとだれかが喜んでいるに違いない。

2011年9月 大阪維新の会Ⅱ
 極右の国家主義的・全体主義的政治形態をイタリアのファシスト党から命名してファシズムという。同義語で、今の日本ではハシズム、その共感者をハシストと呼ぶらしい。語源は大阪府の橋下知事からきているようだ。
 6月、公立校の教職員に君が代の起立斉唱を義務づける全国初の条例案が大阪府議会で成立した。橋下徹知事が率いる「大阪維新の会」府議団が提出し、公明・自民・民主・共産の4会派は反対したが、過半数を占める維新の会の賛成多数で可決された。自民党までが反対したのだが…。府議会で審議することは、ほかにもたくさんあると思うが、これだけでは満足せず、今度は「教育委基本条例」なるものを提案してきた。やはり、とんでもない条例案だ。
 第1条に、「この条例は教育基本法・学校教育法…を保管することを目的とする。」とある。しかし、教育基本法第16条の「教育は、不当な支配に服することなく、この法律及び他の法律の定めるところにより行われるべきものであり、教育行政は、国と地方公共団体との適切な役割分担及び相互の協力の下、公正かつ適正に行われなければならない。」に、府議会が府教育委員会に人事・監督権限において是正を求めることを可能とした第14条は、教基法に反しないのか。第7条の「市町村は学力テストの結果を公表する。」は、知事の要求そのもの。第20条は人事評価。Sは5、Aは20、Bは60、Cは10、Dは5%で、期末手当に反映させなければならないとある。相対評価なので、各職場には、手当カットのダメ教員が必ず5%いることになる。第38・39条は、職務命令違反2回で停職、3回(同一職務)で分限免職という処分規定だが、君が代斉唱で起立しない教員を意識してのことのようだ。第49条は、校長が必要とすれば、土曜日に授業を行うことができるとするが、労働基準法(週40時間労働)との整合性は保たれるのか。
 そもそも学力テストの結果非公開や大阪府の低位に感情的になっていた橋下知事。その感情のまま条例案を出してきたのではないか。教育基本条例ではなく、府の教員嫌い条例または知事に逆らうな条例というべきもの。成立しないでほしい。

2011年7月 電気事業
 ライフラインである電力・ガス・水道のうち、水道は各市町村の公益事業として運営されている。水道法が改正され、民営化も可能となったが、今のところ民営化された「水道」はない。しかし、電力と都市ガスについては、一定区域の独占が電力事業法・ガス事業法によって認められており、民間企業による市場独占が行われている。(仙台市のガスは市営)
 今回の九州電力・東京電力の件で明らかなように、市場を独占している私企業がその公共性を自覚できるはずがない。九電のサクラメールは今回明らかになっただけで、たいていの公聴会・公開討論会というものには、サクラが用意してある。記者会見の場で、社長本人が関与したかどうかも部下の用意したメモを見ないと答えられないようでは情けない。
 東京電力の計画停電・節電騒ぎも怪しい。フクシマ原発事故後の首都圏における計画停電は、今思えば、事故への関心をはぐらかし、原発がないと停電になるというウソのイメージを国民に持たせるものであったに違いない。
 17日、名古屋コリアンスクールで、名古屋と新潟のフォークバンドのジョイントライブに、なないろバンドのベースとして参加した。このとき、新潟の人たちのパワーに圧倒された。そうだみつのりさんは、ふんどし一枚で登場。「原発ストリップ劇場」という反原発の歌は、ワンコードのAmだけ。メッセージがびしびし伝わってくる。終わってから、「原発反対と言い続けてきて、いざフクシマの事故が起きてしまうと、なんか反対のボルテージが上がらないねえ」と一言。同感だ。新潟といえば、柏崎原発があり、巻町でも建設計画が持ち上がった。
 国策として交付金・補助金を建設地にばらまき、原発を建設すれば電力会社が儲かるしくみを作ってきた。しかも、安全だからと。その結果がフクシマだ。菅首相には、延命や口だけの脱原発でなくて、本気で脱原発に向けての法改正・制定を行ってほしい。 

2011年5月  大阪維新の会Ⅰ
 大阪府の橋下徹知事が代表を務める地域政党「大阪維新の会」府議団が、府立学校の入学式や卒業式などで国歌を斉唱するときに、教職員に起立を義務づける条例案を5月定例府議会に提出する方針を固めたという報道があった。さらに、橋下知事は「府議が議論して決めたルールに府内の教員は従うべきだ」・「起立しない教員は意地でも辞めさせる。」と息巻いた。大阪のこういう流れのなかで、今年度の入学式の国歌斉唱時に校長の職務命令に従わず起立しなかったとして、大阪府教委は豊中市の府立高校の女性教諭2人を戒告とする懲戒処分を行った。
 議会制民主主義の時代でも、ファシズムになる。ナチスがそうだ。ベルサイユ条約破棄とか労働者に仕事を・農民に土地をなんて聞こえのよいことを掲げて、選挙に大勝した。すると、その公約の実現ではなく、ナチス以外の政党の活動を禁止し、言論の自由をなくした。そこで、「そんなはずでは!」と思っても、もう遅いのだ。ナチスのような詐欺政党にだまされてはいけないと、民衆は学んでおかねばならない。
 大阪維新の会の公式サイトの政策のなかに、国歌斉唱のときに教員の起立を義務づけるという項目は見つけることができなかった。維新の会は、それを一つの公約として選挙戦を戦ったのだろうか。府議選では過半数の議席をとったが、公約としてなかったのなら、立派な詐欺政党だ。
 25日に明らかになったが、「服務規律の厳格化」を目的とし、起立だけではなく、斉唱も義務づける条例案を提出するということだ。過半数あるので、成立するだろう。次には、複数回違反者を懲戒免職にする条例案を出すという。府教委が処分権をもたない政令指定都市・大阪市や堺市の教員も対象とするという越権行為もさることながら、思想信条の自由に反する憲法違反のとんでもない条例である。今や、大都市圏の首長が危ない。

2011年3月19日 東日本大震災
 まずもって、この度の東日本大震災により亡くなられた方々のご冥福をお祈り申し上げ、被害を受けられた方々には心からお見舞い申し上げます。
 東日本大震災は津波の恐ろしさをまざまざと教えてく入れた。コンクリートの建造物しか残っていない様は、まるでヒロシマやナガサキのようである。その津波が火事を引き起こすとは、驚きだった。そして、「想定外」の津波は福島原発を襲い、原発は冷却機能を失い、炉心溶融の危機に陥っている。
 テレビのCMでは 二酸化炭素を出さないからクリーンなエネルギーと言っているが、二酸化炭素を浴びるか、放射性物質を浴びるか、どちらが命に関わるのか明らかである。これで、原発の安全神話が崩れた。(私のなかでは、始めからそんなものは存在しないが…。) ○○ミリシーベルトは1あたり量(1時間あたり)である。24時間同じ場所にいたら、24倍の量になる。原発周辺の放射線の量はたいしたことはないと、メディアは連呼するが、×(かける)時間で被曝量が決まることを忘れてはいけない。 
 不思議なことは、マグニチュード7.9→8.4→8.8→9.0と気象庁の発表がころころと修正されたことだ。原発事故は「想定外」の地震であったというシナリオ作りではないかという話もある。(各原発は8.4を想定した地震対策をとっている。)
 日本企業の株価が暴落した。市場経済というものは冷酷だ。励ましの融資よりも、自分資産を守ることが第一のようだ。さらに意外なことは、円高になったことだ。災害により日本の生産力は低下し、「円」の価値は下がるはずなのに。日本の企業が復興のために大量の円を使うだろうと予想を立て、海外の投資家が一気に円買いを行ったらしい。投資には、人の命の重みとは無関係のようだ。
 暴動とか、略奪とかはなく、阪神淡路大震災に続いて、日本人のモラルはまだまだ捨てたもんじゃないと、胸を張れそうだ。ただ、首都圏で食料品の買いだめが起きているのは少し残念だし、被災地に入り瓦礫の中から金庫を探し横領する人がいるようで悲しい。
 歴史的に、この国の国策が弱いことも明らかになった。導入がドイツとアメリカで違うため、一つの国で50ヘルツと60ヘルツの二つの周波数になっている。関東と中部では周波数が違うために、中電から東電に大量に電力の支援ができないようだ。
 私の勤務する中学校では募金が始まった。まずは、原発の危機回避、そして被災地の早期復興を願いたい。

2010年11月  今の中学生
  転勤して、久しぶりの担任業についている。しかも、中学2年生という一番やっかいな時期の生徒たちを担当している。以前から中学生の幼稚化が指摘されているが、まさしく年齢×0.7=生活力年齢なのだ。中2は14歳だから、14歳×0.7≒10歳、体つきは14歳だが、生活力は小学4年生並みという生徒が多い。そんな生徒たちを相手に疲れる毎日を送っている。
 とにかく落ち着くことができず、後ろや横を向いてすぐにおしゃべりをする生徒たち、掃除の時間にまったく掃除をしない生徒たちに注意をすると、「何で私たちだけに言うの」・「うちらだけじゃないし」・「しゃべってないし」・「掃除やってたし」と反論してくる。 
私  「ちゃんと掃除をしなさい。だいたい、教室にいなかったじゃないか。」 
生徒「私たち、教室にいたよ。ねえ。(横の人に同意を求める)」
私  「あのね、あなたたちが教室にいたのは、掃除が始まってほんの30秒くらい。それは『いた』とは言いません。掃除終 了までいたら、『いた』と言っていいです。」
というように、こちらもしっかりと反論しておかないといけない。(「あなたたちだけではありません。この前は○○さん、その前は□□さんに注意しています。」・「もちろんあなたたちだけではありません。いけない人には同じように注意しています。」・「ほうきで2・3回掃いた後に遊んでいたら、掃除をしたことにはなりません。」というように。)  
 自分勝手で幼稚な言い訳が通用すると勘違いしている生徒が実に多い。これまでに、幼稚な言い訳が通用して許されてきたのではと思う。勉強さえしていれば、他のことについては甘くなってしまっている子育てが背景にあるのかもしれない。
 幼稚化は生活体験の希薄化によるものだ。小学校中学年くらいまでに「鬼ごっこ」を卒業しておけば、中3にもなって廊下を走りまくる「鬼ごっこ」はしない。電化により省力化された家庭生活やコンピュータゲームが相手をしてくれる放課後の生活が、家庭での労働や集団での外遊びを奪った。それらをどこまで復権できるか、今の大人たちに課せられている。 


2010年9月 青森・おもしろ学校
 94年の秋から隔週土曜日が学校休業日になってから、年2回、土曜日に「一日おもしろ学校ごっこ」を開催してきた。基本会場は名古屋市女性会館だが、リクエストに応じて、三重県桑名市・岐阜県土岐市・東京都が会場になったこともあった。今回の第39回は、青森LD親の会「こんぺいとう」さんの依頼で、青森市で開催することになった。
 9月10日、JAL便で青森入り。青森の夜は風が吹くとさわやかで快適であった。青森県庁前の道路を歩くと、国道4号線と7号線とのジョイント地点があり、日本橋へ784kmとあった。次に階段付きの公衆電話ボックスを見つけた。信号は矢印信号まで縦になっており、豪雪対応の街になっていた。夕食ではホッキ貝の刺身を初めて口にした。くせがあるが、美味しかった。そこでは、何といっても、主催の「こんぺいとう」のお母さん方がとにかく元気だった。どこも女性が元気みたい。
 11日、青森の子供たちはまじめで明るかった。1時間目の私の音楽の授業では、始めは堅さがあってノリきれない部分もあったが、エンジンがかかるとノリノリで怪獣ロックを歌ってくれた。2時間目は、読点の打ち方を学ぶ国語。4時間目は、参加したお母さん方の悩み事に岡崎さんとともに答える教育困談会を担当した。いつものように中身の濃いひとときであった。
 JAL便までの時間があったので、三内丸山遺跡に立ち寄った。4500年前の縄文遺跡だ。整備が行き届き、ミュージアムもあり、それでいて入場無料(青森県教育庁の管轄)。近くにあるなら、是非とも生徒を引率して行きたい所だ。教科書に出てくる「貝塚」はなく、土器・石器などの生活廃棄物の廃棄が何度も繰り返されたため、周囲より高くなった「盛土」があり、その断面が観察できるようになっていた。学校では大和王権中心の歴史を学ばされているので、東日本については「蝦夷」・「奥州藤原氏」くらいしか教科書に出てこない。しかし、縄文時代からこの地に生きた人々の歴史は始まっているのだ。

 青森=リンゴ&ホタテ貝というレベルの私のイメージは今回で、うんと深いものになった。

2010年5月 学校の常識は世間の非常識
 19年前、A中に転勤した。立派な作り置きの傘立てがあるのに、教室で傘を保管していた。そのため、雨の日の廊下は水に濡れて滑りやすく危なかった。持ち込む理由は、傘を無断拝借したり、壊したりするからということだ。生徒指導部会で、傘は傘立てに置こうと提案し、変更した。もちろん、生徒への働きかけも同時に行いながら。傘の紛失がかなり少なくなってきた頃、A中からH中に転勤した。
 H中でも傘を教室に持ち込んでいた。職員会で何度も発言した。水漏れしたらタライで受けて回るのではなく、元の蛇口を閉めることをしていかないと、這い回る指導になってしまう。傘は傘立てにという提案が通り、傘の紛失や損壊があったら重大事として扱うことや忘れ物の傘を貸し出すことも確認された。特に午後から雨が降ってきた日の下校時には昇降口に職員が立ち、傘貸し出しの呼びかけを行った。昨年度は、傘の紛失や損壊がほとんどなくなくなった。(自分の傘を損壊することはあったが…。) さらに、教室で物がなくなるということもなくなった。
 そして、今年度再びA中に転勤した。15年ぶりの担任で、担当の教室に行くと傘を入れるためのポリバケツが置いてあった。それを発見した途端、力が抜けた。A中には傘の損壊や万引に関わる生徒がそこそこいるということらしいが…。濡れた傘を教室に持ち込むという方法は、問題を回避できたとしても、問題を解決することはできない。万引きを減らすためにも、身近な傘問題からモラルの向上を始めていくべきではないかと思う。


2010年1月 政党助成金
 鳩山首相の偽装献金事件では、献金をした覚えのない人が献金をしたことになっているなんて、どういうことだろうと思っていた。7年前から毎月1500万円の提供を受けていて、その処理だったのかと。しかも、税逃れにもなる。その後、鳩山首相は5億7500万円の贈与税を納入した。親からそんな大金をもらっていて「知らない」は信じられない。
 もう一つの民主党の小沢幹事長の資金管理団体をめぐる政治資金規正法違反事件では、政党助成金の裏技が見えてきた。自由党は解散直前に、助成金の15億円を幹事長の藤井氏あてに「組織対策費」として支出していた。政党助成法では、領収書があれば個人にも支出でき、使途説明はいらないらしい。解党時には、残金を国に返還しなさいと総務相が命じることができるという規定はいかにもザル法だ。藤井氏あての支出は解党直前というタイミングであったので、やはり、返還逃れであろう。この藤井氏に支出された残金が小沢氏の政治団体「改革フォーラム21」の複数の口座に分散して入金されていたからだ。過去にもフォーラム21に、小沢氏が新生党を解散する直前、党に残っていた資金9億円を移していたようだ。これに加え、ゼネコンからの裏金による土地購入疑惑もある。
 これが政党助成金で甘やかされた政党の姿だ。この制度を始めても、政治献金も認めているので、政治家とカネの問題は何も解決していない。 予算案や法律・条例案を可決してもらうために、「議員」に対しての厚遇は日本中に蔓延している。この自らへの改革ができなければ、民主党も自民党と同じで、近いうちに国民からそっぽを向かれるであろう。 とにかく国も地方も議会対策で、議員にはお手盛りの特権を与えすぎだ。改革というなら、この特権をなくすことから始めなければ、本気の改革ではないということだ。


2009年11月 教員免許更新制Ⅳ
 やはり、最初で最後であった。教員免許更新の無意味さをずっと訴えてきたが、民主党政権の事業見直しのなかで廃止が決まった。ばかげたことが廃止されることは喜ぶべきことだけど、あの夏の日々の30時間(5日間)と3万3千円は何だったのかという釈然としない思いの方が今は勝っている。「教育力の向上」というが、何も向上するような講座はなく、なかには私が交代してお話をしましょうかというレベルのものもあった。
 制度廃止の代わりとして、大学四年間に加え、大学院2年間での修士号取得を教員免許の条件とし、教育実習を現行の2~4週間から1年間に延長する。また、8年以上経験した現役教師が2年間の研修で取得できる専門免許(一般免許の上級)を設ける。というのが、民主党の方針のようだ。
 1年間の教育実習というのは、現場にいる者としては困る。現行の実習指導では、無手当で超過勤務しながら指導している。長期になれば、実習者が慣れた分指導がラクになるという考え方もできるが、実習者に管理責任を負わせることはできないので、常に張り付く指導が長期間続くことを忘れてはいけない。
 現場には、さらに1年間の新任者指導もあり、毎週水曜日の新任研修の補欠を非常勤講師が担当する。ほかにも、常勤講師がいて、非正規雇用者の割合が高まっている。そこに、労働者でもない実習者が1年間もいるとなると、現場はますます疲弊してく。 
 教員の質を上げるというなら、教員の待遇を向上させることだ。給与をアップし、研修権をしっかりと保障する。これだけで、教員採用試験の倍率が上がり、質の高い人材を集めることができる。しかし、教員養成大学の入学試験や教員採用試験の倍率が年々下がっている。愛知県の小学校教員の採用倍率は2倍にまで落ちてきた。

2009年9月 教員免許更新制Ⅲ
 この夏、教員免許更新講座にしかたなく参加した。まずは18時間の選択講座。裁判員制度・地理フィールドワーク・近代文学から見える近代思想を選択した。一言で言えば、大学の社会人講座という感じで、違うのは最後にテストがあること。どの講師も「落とすためのものではない」と言いながら配布するテストは、それぞれのテーマについてB4用紙に自分の考察を筆記するものであった。学ぶことはできたが、何も強制されてまでのことではない。
 次は必須講座の12時間。この2日間は3時間ごとに筆記テストと我慢で疲れた。教育の最新事情ということだが、「現場の皆さんに言うのもおこがましいが」と講師の言うとおりで、今さらという感じ。大学院出たての若い講師による教育政策の歴史を教えられても、こちらはその渦中でやってきているわけで、表面的な流れをたらたら話されてもねえ…。本当に代わって話をしたいくらいだった。一つわかったことは、その若い講師が文科省の指示文書をパワーポイントで見せてくれたので、必須については、文科省がその内容を詳細に定めていたということだ。
 民主党はこの更新制には反対している。私は最初で最後の教員免許更新講座に参加したことになりそうだ。うれしい!(泣)

2009年4月 ばらまきに注意
 麻生内閣の支持率が少し上がったそうだ。定額給付金の給付と高速道路1000円の効果か…。総額2兆円に及ぶ給付金の予算は、雇用や福祉・教育に回すべきだ。あの地域振興券の失政がまたもや繰り返される。
 高速道路の土日祝日・ETC・普通車以下限定で1000円という政策も、失政で詐欺商法に近い。それまでも休日は100㎞未満半額であった。日帰りレジャーは片道100㎞未満にしないと、目的地でゆっくりはできない。100㎞弱なら高速道路の料金は半額で1200円くらいである。だれが一日かけて東北地方から関西地方まで走るのだろうか。だれが毎週のように里帰りするのだろうか。通常の利用のしかたからすれば、2・300円得した程度なのだ。しかも2年間限定の政策である。高速道路に財政出動するなら、すべての曜日・トラックやバスを含むすべての車種の料金を半額にすべきだ。(無料は渋滞を招き、高速道路にならない。)
 さらに、補正予算案が通れば、赤字国債や建設国債の発行額は税収入を超え、過去最大の40兆円以上になる。これまでの国・地方の長期債務残高は800兆円近くあり、先進国では最悪のレベルにあるのに。もし、家計で所得を超える借金をしていたなら、その家は「解散」となるだろう。
 今回の給付金や高速道路1000円で喜び、麻生内閣支持に回った人々は、数年後の消費税大幅アップのときに、何というのだろうか。イチゴがのったショートケーキ(景気)でも、なかのスポンジが辛子入りで「ゼイ、ゼイ」(税)となるなら、そんなものはいらない。

2009年3月  地域の行事
 あと少しで区会議員(二年任期・自治会役員))が終わる。
月一回の定例会に加え、回覧板の配布、道役・溝役(地域清掃)のセッティング、介助犬センター建設のための説明会運営など、けっこう仕事はあった。
 特に大変だったのは、真夏の午前中に、盆踊り大会のやぐらを組むことだった。工事現場で使用する足場を組み、一段目は踊り子用・二段目は太鼓用にと、かなり大きいやぐらを組む。早朝から始めるが、途中からは汗だくになり、首に掛けたタオルはびしょびしょになる。紅白幕を掛け、提灯を四方に張り巡らせると、やっと終了。
 一息ついて、夕方からは本番準備。寄付お披露目短冊を書いた私は、「○○様 五阡萬円」とやってしまった。五千円だった。本番が始まると、音響担当の私はまた忙しい。町長や県会議員のあいさつが途中で入ったり、盆踊りの曲を次々に入れ替えたりと…。昨年度は雨が降りそうだったので、後半の数曲は内緒でテープ速度を上げておくという工夫(?)もした。
 次の日、片付けは三時間で終わった。このお仕事以外に、役員は慣例で五千円の寄付をすることになっていると聞き、予算内で行うべきではないかと定例会で物申した。
 あまりかかわりたくないと思った仕事は、氏子さんからの依頼で、地元の神社や伊勢神宮の御札を販売したり、寄付を募ったりする回覧を回すことだった。個人の信仰の自由に関係なく、田舎では神道文化がまだ根付いているようだ。
 最後は総会だ。ここでも民主主義の形できているが、シャンシャンの会になっている。争点もなく、平和な地区なのかな。
 

2008年12月 労働者派遣
 流行語大賞のトップテンに「蟹工船」が入ったらしい。なぜ今、「蟹工船」なのか。手配師に搾取され、過酷な労働条件で働かされた当時の状況に、現在の派遣労働者の状況が重なり、『蟹工船』(小林多喜二)がよく読まれているという。しかし、労働基準法のない時代とある時代とが、どうして重なるのであろうか。
 労働者派遣という間接雇用は労働条件を悪化させるとして、もともと職業安定法によって禁止されていた。しかし、1986年に、中曽根内閣によって、労働者派遣法が成立し、間接雇用に道を開いた。そして、1999年の小渕内閣による労働者派遣法改正(?)で、限定されていた派遣業種が拡大された。さらに、2003年、「痛みをともなう改革」の一つとして、小泉内閣による改正(?)で、派遣業種が製造業まで拡大され、派遣期間上限も延長された。
 つまり、戦後の労働条件を向上する流れは、派遣労働を認めることによって、戦前の状況の方向に逆流することになったのだ。
 現在、世界的な金融危機の状況で、労働者派遣法は大企業には役立ち、さっそく非正規雇用の派遣労働者・期間労働者の首切りが始まった。トヨタ・キャノン・東芝…。 
 地域振興券の失敗にも懲りず、再びバラまこうとしている定額給付金の分をとりあえず雇用対策に充てていくことが急務である。国のため、子供のためと言いながら、結局は選挙のため、自分のための政治しか頭にない政治家たちに、この国の国民はいつになったら見切りをつけるのか…。

2008年7月 教員免許更新

 運良く(?)教員免許更新の初回に当てはまった。私の小・中・高の教員免許は2011年の3月に失効することになってしまったのだ。法治国家とはいえ、あまりにも横暴だ。
 だいだい経験を30年以上積めば、その仕事への熟練度は増す。営業職だろうが、技術職だろうが、その道のノウハウを身につけ、後輩を指導する立場になる。だから、医師や弁護士・会計士などの資格は、よほどの触法行為がない限り失効しない。
 なのにだ。なぜ、教員だけなのだ。小中高の教員は10年たつと、能力が落ちるのだろうか。授業のワザも磨きがかかるし、子供や保護者への対応も慣れてくる。教育という仕事にだって熟練が必要である。
 ということは、この目的は不適格教員のあぶり出しか。いや、不適格教員の指導や処置は現行の制度で十分に可能であった。真の目的は、現政権の「国家の方針に従順な教員づくり」ではないか。
 こんなことを思いながら、今年の夏、免許更新の講習に出かける。今年度分だけ無料だそうだ。来年からは3万円くらい必要らしい。今夏は合計12時間の開催なので、来年度は残りの18時間の講習を受けなければならない。しかも、3時間の講習終了ごとにテストもあるらしい。
 大学教授が教育事情として、私が現場で遭遇し解決してきた大変な事件で学んだこと以上の話をしてくれるのか、ということを期待して、重い足を運ぶか…。

  
2008年3月 現代江戸考
 寿司を食べたいとき、私自身の懐具合の関係で、最近は寿司屋ではなく回転寿司店に行くことになるが、寿司屋といえば「江戸前」という看板が掲げてあることが多い。それは、江戸時代の東京湾の魚を出しているということなのである。当時の江戸は人口100万人で、理想的なリサイクル社会。栄養分の高い江戸の前の海で育った魚は美味であるというわけである。
 今や東京は一極集中の過密状態で、1平方mが数百万円なんていう地価がついている。町奉行は権力を振りかざし、寺子屋制度を統制し、新規に設置した両替屋の負債については責任をとろうとしない。江戸の町人が知ったら、そんな未来に失望するだろう。
 ところで、東京が首都であるのはなぜか。それは、江戸に幕府があったからである。では、なぜ、江戸なのか。その答えは「小牧・長久手の戦い」にある。この戦いは豊臣秀吉と徳川家康との戦いで、勝ち逃げの家康は秀吉と和睦をした。そのときに、家康は関東に配置換えになったのである。その関東で「鳴くまで待とうホトトギス」の家康が天下を秀吉から奪い、江戸に幕府を開いたのである。この戦いがなければ、首都は岡崎だったかもしれない。


2008年1月 数字表記
 この国の数字は3桁ごとにコンマを打って表記することが多い。しかし、3桁ごとに仕切ることによって、わかりやすくなるのは英語による表現のときなのである。
10,000(1万)=ten thousand、1,000,000(100万)=one million、100,000,000(1億)=one hundred millionというように。
 日本は「千百十一」がの4桁が基本で、次はそれに「万」をつけ、さらに「億」・「兆」とつける。つまり、4桁ごと仕切るべきなのだ。1000000000や1,000,000,000よりも10,0000,0000と仕切れば、すぐに10億と読むことができる。
 私自身は3桁や4桁の生活なので、コンマがあってもなくても金額を間違えずに買い物はできるが、今の3桁コンマでの大金や大量の数表記はとても不便である、少なくとも国内では4桁コンマ表示にすべきである。ここまでも英語文化に合わせる必要があるのかと思う。
 このことは、この国の主体性のなさと無関係ではない。最近の国際株式市場では「日本市場の一人負け」状態が続き、その原因として、日本政府の不透明な政策が外国からの投資を控えめにさせていることがあげられている。
 被爆国で憲法9条を掲げているが、どれだけ世界平和に貢献しているのか。インド洋に無料給油所をつくればよいのか。地球温暖化防止会議の開催地(京都)でありながら、環境問題にイニシアティブをとるわけでもない。いつも親分アメリカの陰に隠れている国の将来の姿は見えてこない。小学校5・6年生に、日常の生活では使用していない親分の言語を週1時間教えることは早々と決まったが…。
 

2007年11月 ガソリン値上げ

 ガソリンの値上がりが続く。このままでいくと、物価だけが上昇する歪んだインフレになり、ますます私たちの暮らしは厳しくなりそうだ。北京オリンピックが終われば、収まるのか…。
 ガソリンといえば、かなりの揮発油税が課せられている。これが目的税として、道路建設のみに使われている。そして、揮発油税は本来の税率よりも高い暫定税率が現在課せられている。本則28.7円/L→暫定48.6円/Lである。これを戻せば、25円は安くなる。
 このほかにも、自動車取得税・3%→5%、軽油取引税15円/L→32.1円/L、自動車重量税・5千㎏ごと2500円→6300円というように、本来の税率よりも2倍から3倍近くになっている。これらを本則税率に戻すだけでも、物価上昇へのいくらかの歯止めになるのではないか。

2007年9月 全国学力調査
 70億円あまりの税金を投入して実施された全国学力調査の結果が出される。愛知県内の市町村教育委員会は、学校の序列化に結びつかない範囲の情報公開にとどめる方針のようだ。(全国で唯一実施しなかった犬山市教育委員会は除く。…犬山市教育委員会の姿勢にエールを送りたい。)この方針には賛同したい。各学校の平均値を公表し序列化をはかっても、子供たちや学校現場にとまどいと混乱をもたらすだけだ。
 まず、学力調査の内容は適切なのか。 (なぜ、国語と算数< 数学> の2教科かという問題もあるが…。 ) 「知識」部分は学校で教える内容と大きなずれはないが、「活用」部分は学校の授業では扱っていない内容だ。「知識」部分は基礎的で必要な領域が採り上げられているのか、「活用」部分は今後に必要な学力として位置づけているのか、それぞれに検証や検討が必要になってくる。アルバイトを使った採点にも、昨日は×だった解答が今日は○になるというような混乱があり、採点そのものにも検証が必要のようだ。

 次には、平均値そのものの問題がある。平均値は零点に近い得点者がいると、一気に下がる。平均値は真ん中ではない。平均値を公開し、学校ごとの序列化をすれば、低学力の児童生徒の参加を巧妙に排除する学校が出てくるだけだ。  さらに、評価・評定に直結するから、真剣に取り組むという児童生徒が多いなか、単なる調査的なテストに高いモチベーションで彼らが取り組むのか疑問である。実際に、私の勤務する中学校では、問題を解くことを早々とあきらめ、寝ていたり、絵を描いていたりする生徒がけっこういた。今回のデータがどれだけ役に立つものになるのか…。 結局は、ベネッセやNTTデータが大型公共事業を受注し、潤っただけのことか…。

2007年5月 厩戸皇子
 歴史教科書の通説がどんどん崩れてきている。例えば、
・聖徳太子が十七条憲法をつくった→もっと後の時代につくられたもの。   
・聖徳太子が法隆寺を建てた→建てたのは斑鳩寺で、その後670年に焼失し、その場所に再建したのが法隆寺。
・シャクを持つ聖徳太子の肖像画→死期百年後に描かれた もので、当時に「シャク」を持つ習慣はなかった。
・聖徳太子→厩戸皇子が当時の名で、後世の人が「聖徳太子」と呼んだ。(週刊『しゃかぽん』朝日新聞社)
というように、テストに出題するようなことも、実は間違っていたということになる。
 教科書の通説は『日本書紀』を根拠にし、日本の古代史を展開してきたということが考えられる。壬申の乱で勝利した天武側の皇位の正当化・藤原氏の繁栄・蘇我氏の排除を目的に、不比等が『日本書紀』を編纂したという背景からして、『日本書紀』は「勝者によってつくられた」歴史書(物語)であることがわかる。(それまでは、「大王」であったのが、このときから「天皇」と呼ばせるようになった。)
 前々から「このあたりの史実は怪しい」と言われてきたが、戦後六十年以上を経て、やっとタブーがタブーでなくなってきた感じがする。その分、従軍慰安婦問題・靖国問題や改憲論議など、戦中・戦後に関わる歴史の方に世の中の関心が向いているようだ。このどさくさまぎれに、日本の古代史をきちんと整理してほしいものだ。

2007年3月 教員免許更新制
 教育基本法が改悪され、それに基づく法律が国会で制定される動きが出てきた。その一つが教員免許更新制を盛り込んだ法案だ。教員免許状に10年間という有効期限を設け、その期限ごとに講習を受講させ、その結果、免許状の更新か失効かを決めるという方向のようだ。その対象は、管理職を除く現職教員になるようだ。
 免許更新というなら、普通、免許を所持している人全員が対象になるはずだ。しかし、大学で免許を取り、教員になっていない「ペーパーティーチャー」は対象にならない。安価な労働力を求められている現場では、そういった人が非常勤講師としてかなり採用されている。なかには、能力の高い人もいるが、非常勤講師の授業が成立していない場合がままある。 
 これはつまり、「免許更新」→「免許失効」という図式に名を借りた指導力不足教員のあぶり出しである。現場には指導不足教員がいるかいないかと言われれば、残念だけど、ほんの少しいる。管理職にもいる。管理職は対象外であり、対象である現職教員に講習をさせたところで、「指導力不足」が分かるのであろうか? 
 そういう教員がいたのなら、同僚や関係する生徒・保護者が一番よく知っている。そんなとき「管理」職の出番であろう。校内で指導→教育センターでの研修というルートが今でもあるのだ。
 現行制度でも対応できるのに、あえて法案化する意図は何か。治安維持法下の社会のように、国体の変革をめざしたり、文部科学省の教育方針に逆らったりする教員も、ついでに「免許失効」させ排除するという恐ろしい法案かもしれない…。

2007年2月 宮本警部
  東京都板橋区の東武東上線ときわ台駅で、踏切に入った自殺志願の女性を助けようとして、電車にはねられ死亡した警察官・宮本邦彦さんに、多くの人が追悼の意を表した。 モラルの低い事件ばかり報道されるなか、悲しいけど心が洗われる事件だった。でも、待てよ。気になることがある。
 二人が踏切内でもみ合っていた時間がそこそこあったらしい。ホームには電車を待つ乗客がいて、その様子に気づいていた人もいたようだ。ホームには非常停止ボタンが4か所に取り付けてあったという。まず、駅員はどこにいたんだろう。休憩時間だったのかどうか分からないが、東武鉄道は急行電車の通過に対する安全確保よりも、合理化優先だったのか…。
 もう一つは、そして、駅員がいなくても誰かがすぐに非常停止ボタンを押せば、宮本さんの命を救えたかもしれないということだ。(事故時には押されていたらしいが…) ここから見えるものは、マニュアル化社会になり、マニュアルがないと瞬時の判断ができない人が増えてきたのではないかということだ。
 飲食店のレジでは判を押したように、「千円からお預かりします。」と、マニュアルどおりの誤った日本語が相変わらず聞こえてくる。勤務校に「包丁男・職員室乱入」事件が起きたときも、「生徒をどうするの?」と聞いても、返事をしてもらえず、私は自分の判断で生徒を緊急下校させた。
 生きる力の一つには、マニュアルがなくても、自己責任において判断することが含まれると思う。この力は、セットされた学習では身に付かない。「総合的な学習」を削減するという話は出ていないが、現在多くの小中学校で実践されている方法では、マニュアル社会化に歯止めをかけることはできないであろう。         

2007年1月 教育再生会議
  教育再生会議とやら、話題の人を委員にし、「教育の再生」への提案をするそうだ。まず「教育の再生」って、教育は再生しなければならないほど、問題だらけなのか。「いじめ」は学校だけでなく人間の集団に少なからず存在するもので、職場・地域・社会全体の問題でもあろう。「学力の低下」って、まず何が「学力」か。数値で測ることができない「学力」も大切ではなかったのか。授業数を増やし、土曜日や夏休みに開校させたいそうだ。
 増税せよといったとき、その前に歳費削減をせよというではないか。教育再生会議の委員さんは、現行のカリキュラムを調査したのであろうか。いかに無駄が多いカリキュラムか、ご存じなのか。
 中学3年生では、年間980時間のなかで、235時間の選択教科と総合的な学習の履修が義務づけられているのだ。これは週あたり7時間近くにあたる。高校進学への内申点にならない選択や総合の授業を「学び」の形にもっていくことに大変は労力がかかる。例えば、この選択と総合を必須教科に戻すだけで、授業時間10%増なんで簡単に確保できるのである。このことにはまったくふれられていない。ふれたら、現行の時間で解決できるからである。
 では、「教育再生」の本音は何か。ILOの勧告で「働き過ぎの日本」は欧米レベルの労働時間数に近づいた。しかし、このところの労働改革は労働組合の力を弱め、「サービス残業」・「ホワイトカラー・エグゼンプション」に象徴されるように労働条件悪化を財界の希望どおりに進行させている。土曜日や夏休みに、子供が家にいると、親は仕事に行きにくいのである。だから、「学力低下」という大義名分をつくり、そのためには授業時間の増加が必要だとし、土曜日や夏休みに学校開催させようという提案をしてきたのだ。

2006年12月 駐車場問題
 この辺りでは、瀬戸市・名古屋市がマイカー通勤の教員から、駐車料金を徴収している。江南市でも、小中学校の駐車場を教職員が通勤で使う場合、月額二千百円の支払いを義務づけた。この有料化の無効を求め、同市の小学校教員が提訴したが、名古屋地裁は有料化を認める判決を出した。通勤の車を駐車することが学校の目的にかなう利用かどうかが争点だったらしく、地裁は「(駐車場利用は)学校本来の目的に含まれない。公教育に当然に必要なことだとまでは認められない。」とした。
 おいおい。給料は下げられ、問題を抱える子供や保護者が増え、駐車料金まで徴収されては、仕事へのモチベーションは上がるわけがない。
 まず、駐車場利用が学校の本来の目的や公教育に必要なものかという議論がおかしい。学校とか教員とかの前に、従業員がその事業所で働く「労働条件」のなかに、「通勤」は当然のことながら含まれる。だから、どこでも通勤手当は支給されるし、通勤時間も配慮されている。マイカーに頼らざるを得ない立地条件にある事業所で、従業員から駐車料金を徴収するなんて、労働者の福利厚生の観点から考えられない。
 職員が通勤手段を公共交通機関に切り替えたら、出張のある日は授業を補欠にして早めに出かけなければならない。
県が支払う通勤手当は何倍にもなる。(市町村は関係ないからかい?) 学校の敷地は市町村の財産であり、その利用に対して料金を徴収するというなら、車・バイク・自転車でのすべての来校者(行政関係者・業者・保護者など)から、料金を徴収しなさい。一時間百円くらいが適当であろう。そうなれば、市町村の財政収入は大幅アップするであろう。なんなら、私の校務分掌は「駐車場係」でもいいよ。

2006年10月 日の丸・君が代判決
 入学式や卒業式で日の丸に向かっての起立や君が代斉唱を強制するのは、違法で違憲だという東京地裁の判決が出された。難波孝一裁判長は、
・国旗掲揚、国歌斉唱に反対する者も少なからずおり、このような主義主張を持つ者の思想・良心の自由も、他者の権利を侵害するなど公共の福祉に反しない限り、憲法上保護に値する権利。起立や斉唱の義務を課すことは思想・良心の自由を侵害する。
・通達や都教委の一連の指導は、教職員に対し、一方的な一定の理論や観念を生徒に教え込むことを強制することに等しく、教育基本法10条条1項で定めた「不当な支配」に該当し違法である。
と述べた。
 戦前の国家による軍国主義教育の反省から、教育行政が不当に教育内容に介入することを禁じたのが、教育基本法10条である。そして、靖国参拝は「心」の問題とし、強引に参拝した首相がいたが、日の丸や君が代に対しても、「心」の問題である。つまり、日本国憲法第19条の「思想・良心の自由」の範囲なのである。難波判決は、憲法第19条・教育基本法第10条を適切に判断した判決といえる。
 都教委は東京高裁に控訴した。現在の裁判制度(最高裁長官を内閣が指名し、裁判官を任命する)では、高裁か最高裁では原告が敗訴するのではないかと、嫌な予感がする。いや、そうでなくても、教育基本法が自民党案で改悪されたならば、教育基本法10条の精神も消え、上級審で勝訴できるであろうと、都教委は計算しているのではないか。
 つい最近も、「教員の給与を引き下げよ」(財政制度等審議会・財務相の諮問機関)との報道があった。耐性のない児童生徒や問題のある保護者が増え、教育という仕事がますます大変になってきているなかで、給与は下がる・研修も減る。安月給でハードな仕事と分かっていて、だれが教員になろうとするのか。教員に適した人材は集まるのか。今の改革の方向は「不適格教員」の再生産につながる。

2006年9月 少年事件Ⅱ 
 少年が放火をして、家も家族も消してしまう事件が相次いだ。どうなっているんだと思っていたら、今度は高専の生徒が同級生を研究室で殺害する事件が起きた。
 高専の生徒は自殺してしまったので、動機も何もわからないが、これらの少年たちが育ってきた環境や小中学校時代にどんな遊びをしてきたのか知りたい。
 ここからは推測になるが、彼らはデジタル時代の落とし子ではないか。二進法をもとにしたデジタルは「0」か「1」の二つの数字ですべてを表す。表計算ソフトに関数やマクロを組み込むとき、たった一つの記号を忘れただけでも関数やマクロはまったく動かない。アナログ的に人間が行えば、明らかなミスならそのミスを修正しながらものごとを進めることができる。
 しかし、デジタルでは「0」か「1」、「イエス」か「ノー」、選択肢は二つしかない。常に二者択一の論理になれてしまうと、困難な壁に直面したときに多様な解決方法をもつことができず、壁を乗り越えることができなかったら、すぐに乗り越えるのを「やめた」になってしまう。
 この「やめた」がリセットになってしまうと恐い。ゲームなら、すべてを消してやり直すことはすっきりして気持ちがいい。しかし、現実社会でリセットを行うと、それまでの人間関係・環境を消すことになる。当然、「命」も消える。
 テレビゲームという物がなかった時代に子供だった私は、学校から帰ると、同級生や年上・年下も入り交じって外で毎日遊んだ。四つ手網を使っての魚取り。冬の田んぼでの野球。山での秘密基地づくり。嫌なことがあっても、そこではすべてをリセットできない。けんかをして一人帰ったこともあったが、次の日にはまた仲良く遊んでいた。魚取りのワザや打球のフライの取り方(ゴロは田んぼだから、いつもイレギュラー)を学ぶだけでなく、人間関係式をその年に応じたレベルで学んでいたと思う。
 任天堂から、ゲーム機の新製品が出た。「日本の子供からゲーム機を取り上げる法律」を「太田総理(爆笑問題)」に依頼したい。

2006年4月 中二女子殺害事件
  中津川市の中二女子殺害事件。空き店舗で殺害されたため、学区に空き店舗がないかチェックしましょうと、管理職や教育委員会側から、予想どおりの通達があった。行政的な対応はいつも出口を閉じようとする。人を殺す気になったら、空き店舗がなくても、他人に制止されない場所があれば、どこでも可能だ。
 今回も感じたことは、殺害した男子高校生にとって、命とは何かということだ。彼は命の重みを感じることができるような生活体験をしてきたのであろうか。自分の方を向かなくなった彼女を消すということで、失恋という壁を乗り越えようとしたのか。推測であるが、彼はきっとテレビゲームと深く関わってきたと思う。バーチャルな世界と現実との境界が曖昧になってきたのではないか。思いどおりでなくなったら、リセットすればいいというゲーム感覚が身についてしまっていたのではないか。
 中学生の恋愛という観点でいえば、生活基盤が共通ではないところに相手を求める傾向が一部の早熟系女子に出てきたのを最近感じる。同じ生活基盤にある人について知り、しだいに意識をし始め、その人のことを好きになるのが自然な感情だと思う。他校生や先輩・メル友なんていうのは、手っ取り早く恋愛するには絶好の対象かもしれない。そんな形で恋愛を始め、しだいに相手のいろいろな面(嫌な面も)が見えてきて、嫌いになりすぐに別れる。これは私の身近にもある例だ。
 中津川市の事件は特殊な事件なのか、氷山の一角の出来事なのか…。この情報化社会は日本列島を金太郎飴化した。よその土地でおきた関係のないことだとは、私にはとても思えない


2006年3月 WBC
 WBCで、日本チームは一位になった。韓国に二度負け、準決勝進出はほぼ不可能と誰もが思っていた。ところが、予想外のアメリカの敗退で「棚からぼた餅」の準決勝進出。一度死にかけた日本チームは開き直りの戦いができ、誰もが思ってもみなかった優勝を手に入れた。
 でも、アジアの日本と韓国が三度も対戦する予選・本戦リーグ戦と決勝トーナメント戦、おかしくないかい? 
 普通、リーグ戦の一位・二位は分かれてトーナメント戦に参加する。一位通過は他組の二位と当たり、一位に優位性を持たせる。しかし、WBCは同じ組の一位・二位が決勝トーナメントで当たり、一位の優位性はない。結果はどちらも二位の日本とキューバが決勝進出した。
 このような変則対戦にしたのは、アメリカが優勝候補のドミニカ共和国との対戦を避けたためである。見え見えのペテンである。
 さらに、審判員はすべてアメリカのマイナーリーグから選出されていた。あの日本戦やメキシコ戦でのむちゃくちゃな誤審もアメリカを勝たせるためだとすると、ペテンを通り過ぎて、ベースボール創始国のプライドも捨てて、なりふり構わず「勝ちたい」んだなと思わせる。
 そして、興行収入の三分の一以上をアメリカ大リーグが得る一方で、アメリカが出ないという意図に反した対戦になった決勝戦の結果をテレビ報道しないという身勝手なアメリカのメデイア・CNN。
 公正さを欠く国家に民主主義はないし、ナショナリズムという名の下なら多少の不正は許されるという国家は危ない。見え見えのペテンを世界を相手に行うというふてぶてしさも許し難い。アメリカの本性が出たWBCであった。


2006年2月 メール
    〔以下の文章は私が発行している学年通信からの抜粋です。〕
 文章を書く・打つことはとってもよいことです。書く中で言葉を選び、言葉を選ぶ中で考えます。ものの見方・考え方・感じ方が身につきます。しかし、最近の人間関係のトラブルの多くは手紙やメール(主に携帯電話)が原因で起きています。それはなぜでしょうか。
 まず、内容が問題です。トラブルが発生するときの内容は、人への批判や悪口、あるいは自分を正当化して話を伝える場合が多いのでです。また、知った情報をいろんな人に広げる「放送局」みたいな人がいると、さらにトラブルが複雑になります。
 例えば、「○○さん、むかつくね。」「そうそう。○○、まじウザイよね。」「私(僕)はそんなこと言ってないのにね。」(でも、実は言っている。)「ねえねえ、知ってる?○○さん、□□だってよ。」というようなことはありませんか。
 自動車がない時代には交通事故はほとんどありませんでした。自動車は便利ですが、その便利さ=移動の速さによる事故が後を絶ちません。携帯電話のない時代には、トラブルがあっても自分たちで解決していました。しかし、携帯電話やパソコンメールの便利さ=伝達の速さがトラブルを大きく複雑にしてしまい、自分たちでは解決できなくなってきています。
・言いたいことは本人の前で言いましょう! 
・人の良くないことの噂を流すのはやめましょう! 
・メールを打つときは、言葉をじっくり選んで、相手に誤解されないようにしましょう。

 
2005年12月 耐震強度偽装事件
 耐震強度偽装事件が年末の日本を震わせている。事件登場キャストは、姉歯建築士(下請け設計)・総合経営研究所・平成設計(設計)・木村建設・ヒューザー・シノケン(建築主)・日本ERI・イーホームズ・各自治体(検査機関)に、国土交通省など。第二の「姉歯」がいつ登場してくるのか、マンションやホテルの関係者は落ち着かない年末を迎えていることであろう。
 煮え切らない国会での証人喚問であったが、だれが嘘をついているのかは明らかであろう。日本の産業構造では、下請け企業に権限はほとんどない。結果的に見逃しを認め国交省に告発したイーホームズには多少の正義を感じるが、ほかの登場キャストには販売してしまえばこっちのものという無責任さしか漂ってこない。耐震強度が弱い住居といえば、ブレーキが効かない自動車と同じだ。地震国日本においては、この上ない危険物だ。
 「改革」の名の下に、政府はゼロ金利や法人税減税を継続し、大銀行や大手ゼネコンを守ってきた。中小の建築業者は生き残るために、消費者からは見えない耐震構造をケチるというパンドラの箱を開け、史上最高額の悪質商品を販売した。
 この事件はわが国の現状を象徴しているのではないか。欠陥マンションを日本そのものに置き換えるとどうであろう。政府は赤字国債発行は29兆円におさえるというが、もう累積赤字は800兆円にも達している。数値を変えても、日本の財政の耐震強度はどんどん劣化している。いずれやってくる地震(少子高齢化・産業の空洞化・資源の枯渇)に耐えうる建造物(日本)であるのか。


2005年12月 県費旅費
 愛知県では、教員の出張旅費の改悪が行われて3年を経た。もともと県職員の規程をそのまま導入しているので、教員の特殊な引率業務に対応できていない。旅費の対象外になるものは、
・博物館や美術館の入館料
・現地で周遊する乗り物代(ロープウェイ・船など)
・現地での体験料(ものづくり・ラフティングなど)
・同一市町村内のバス代(アルペンルート・高原バス)
などである。
 確かに、県職員が博物館や観光地へ出張することはありえないかもしれないが、教員はそれらの場所へ引率業務としていくのだ。仕事で行くのに、なぜ自腹を切らなければならないのだ。カネが出ないなら、「あなたたちだけで行ってらっしゃい。私は外で待っているから。」と博物館の外で待っているのもアリのはずだ。
 旅行の添乗員は仕事として旅行につきそう。添乗員にかかる経費は旅行というサービスを受ける客が負担している。当たり前だ。「アルペンルートの高原バス代は自己負担してください。」なんていわれたら、多くの添乗員がアルペンルートの添乗をやめるに違いない。
 尾張旭市では、各校1万5千円を入館料などに充てる予算が今年度からついたが、中学校では足りない。本来なら、県費旅費で負担すべきだ。早急に、県費旅費規程を見直してほしい。
 見直すといえば、「ゴミを持ち帰る」という市の方針のため、キャンプ引率で多くの学校は教員の自家用車を1台出す。しかし、その運搬の教員には3日目の特業手当がつかない。その運搬時間が手当の対象時間に入らないからだ。引率業務はもちろん仕事だが、運搬業務だって仕事ではないか。遊びで自家用車に乗ってついていくわけではない。
 教員が仕事として校外学習をするのに、その経費の一部が自己負担になるということは、その活動を教育活動の前提にしていないということだ。キャンプや修学旅行は、もうやめましょうや。

2005年11月 中教審
 
 中教審の審議経過が出された。まず、そのおもな変更点をまとめみよう。
学習指導要領の見直し  
 ・到達目標に照らした評価の在り方。
 ・総合的な学習の時間数と具体的な在り方。
 ・国語力の充実と小学校での外国語教育の充実。
 ・学校図書館の充実と司書教諭の専任化。
 ・一斉指導の重視と習熟度別や少人数指導の積極的実施。
 ・全国的学力調査の実施。
 ・自然体験や職場体験の推進。
教師の質の向上
 ・教師の待遇の改善、学校が魅力ある職場に。
 ・同僚同士のチームワークを重視、全員のレベルを向上。
 ・教員免許更新制の導入。
 ・教師を育てる教員評価の推進。
 ・教員キャリアの複線化を図る。スーパーティーチャー制。
 ・管理職に民間人登用。
組織運営の見直し
 ・教員の公募制やFA制の導入。
 ・学校の処理する事務の負担軽減。
 ・教育委員の任期・数・選任方法は各自治体の選択。 
 ・教職員の人事権は各市町村に移譲する方向で検討する。 
 太字の部分は、是非とも実現してほしい。しかし、国語力の充実や魅力ある職場という一方で、外国語教育の充実とか、教員評価の推進という矛盾した方針が出されている。期待は薄い。
 総合的な学習については、たぶん縮小の方向で見直しをするのではと思うが、中学校の選択教科にはまったくふれられていない。中学校3年生で、総合と選択の合計225時間は多すぎる。そのため、必須教科は時間が足りないため、不適切な精選が行われ、教えにくい・分かりにくい系統性になっている。とりあえず、選択教科を廃止し、その分を必須教科に充ててほしい。 

       
2005年10月 総選挙
 
 今回の総選挙は投票率が上がり、自民党の圧勝であった。公明党を加えれば2/3を超え、憲法改正の発議も可能になった。民主党の新代表も憲法第9条第2項の改正には積極的である。社民党の辻本議員も言っていたが、まるで「大政翼賛会」だ。憲法どころか、すべての法案が成立可能だし、増税もやりたい放題だ。
 ナチスの正式名称は「ドイツ国家社会主義労働者党」である。当時のドイツはベルサイユ条約体制下で苦しんでおり、社会主義運動が活発におこっていた。ナチスはその流れに乗り、他の政党と同様にベルサイユ条約破棄を訴え、ドイツ民族の優越性をアピールして巧妙に国民の支持を得た。政権を握ると、国民の言論の自由を奪い、ナチス以外の政党の活動禁止を行う。ファシズムはソフトにやってくる。何か変だぞと思ったときには、その体制ができあがっている。
 困窮した社会ではもどかしいことを嫌い、カリスマ支配を求める傾向がある。今の日本の状態が大戦前の状況にどこか似ている気がする。
 今回の選挙で大きな役割を果たしたのはメデイアである。問題を郵政民営化に矮小化し、「刺客」選挙区をつくり、選挙を対戦ゲーム化した小泉ブレーンは、さすがである。これにまんまと乗って、テレビ局は視聴率稼ぎをした。「国政の問題は郵政民営化だけではない。」と言いながら、民営化の「刺客」選挙区を取材し放映する。どこの局も同じだ。選挙が「おもしろく」なり、若年層の投票率が上がった。小選挙区制度では得票率が40%もあれば、議席を独占できる。
 超安定多数では解散はありえないので、あと4年間はこの体制が続く。どんな法案が通過するやら…。

2005年6月 万博

 パソコンのキーボードを打ちながら、窓に目をやると、緑色にライトアップされた万博の観覧車が大きく見え、イベントの音も聞こえてくる。うん、万博のことと言えば…。
 万博会場に弁当やペットボトル持ち込み禁止をめぐる論議は、本音を隠した大義だけのやりとりはいかに空回りするかを教えてくれた。
 弁当は食中毒、ペットボトルは爆発物の危険があるから禁止という大義。当然、これに対しては、様々な反論がなされた。そして、首相が「弁当くらいいいんじゃない」の一声で、一転して許可された。まるで、どこかの職員会に似ている。
 本音で語れば、もっと簡単なことなのだ。つまり、協会側は「高いテナント料をいただいているので、会場内の飲食店に儲けてもらわないと困るのです」と言えばいい。近所の建設会社社長が会場内に出店しているが、七千万円のテナント料を支払ったらしい。「最終的に百万円くらい浮けばいいかな」とは社長の談。そうならば、反論も変わってくる。
 かつて、遅刻者が増えたときに、「通知表に遅刻数を記載しよう」と提案した。しかし、「懇談会で指摘すればいい」と反対された。その結果、遅刻者はいっこうに減らなかった。「通知表に記載するのは面倒だ」と反対してくれたなら、話は簡単だったのに。
 今の中学校ではコンピュータで通知表を作成しているので、遅刻数記載の手間はかからない。遅刻数を記載してからは、ウソのように遅刻者が激減した。チャイムが鳴っても、ゆっくり歩いていた生徒たちが走るようになった。
 本音で語るとカッコ悪いと思ったとき、大人は大義を探し唱える。しかし、本質と離れたところでの論議は譲り合ったり分かり合ったりすることがなく、空回りの論議になり時間だけが浪費されることになるのだ。
 緑色のライトが消えた。今日も十万人近くの人が企業や各国の“文化祭発表”を見学に来たのかな。 

2004年12月 韓流ブーム
 
 ヨン様が人気だ。先に言っておくが、決してモテない日本人男のひがみではない。M型はげ頭を見て、生徒たちは私のことを「M様」と呼ぶ。まあ、悪い気はしない。ところで、日本の女性に沸き起こった韓流ブームは、かなり?である。羽田空港に4500人・成田空港に3500人の女性たちが全国から集結してお迎えをした。平日だった。送りは自粛しようとなったらしいが、ソウル空港でかなりの数の日本人女性が「お帰りなさい」したようだ。その後も、○○空港にいるかもしれないとの情報が入れば、あっという間に女性が集まる。
 何でそんなに暇なのって感じ。しかも、お金もかかる。映像で見ると、中高年女性が圧倒的に多い。彼女たちがダメとする日本人男性が稼いだお金で追っかけをしているのではと思うと、寂しい気がする。
 日韓交流が進むのは悪くない。素敵な人を素敵と思うことも悪くない。しかし、いい年をした社会人がすべてに優先して追っかけをする行為はいかがなものか。中学生が幼稚化してきたと嘆いているが、大人が幼稚化しているのだ。ブームは仕掛けられていることを忘れてはいけない。


2004年6月 同級生殺人事件

 学校で児童が殺されるというショッキングな事件がまた起きた。しかも、今度は同級生によって殺害されるという前代未聞の出来事であった。
 学校は学力を身につけるだけでなく、子供たちの人間関係をとおして豊かな人間性を身につけていく場だ。そういう場で殺害事件が起きたことに絶句した。
 この事件から「今の子供は危険だ」なんて一般化するつもりはまったくない。しかし、現代社会の変化に応じて、子供たちのものの見方・考え方・感じ方が変化してきた気がする。
 人間関係はいつも良好とは限らない。良好でなくなったとき、相手に自分の思いをどう伝えるのか、今の子供たちはこの伝え方が下手になってきているのではないか。伝え方の手段が手軽にできるメール(携帯電話やパソコン)・インターネットの掲示板など多様化してきたために、直接相手と話し合うということをあまりしなくなったと思う。
 直接相手と向き合えば、相手の表情や話し方を感じながら話すことができる。メールや掲示板は時や場所を選ばずに手軽な反面、微妙な感情を表現できず書いた文章が鋭く相手に伝わってしまう。最近、メールで人間関係がさらにこじれた例が、中学生のなかで増えてきた。
 もう一つ感じる変化は、バーチャル(仮想)体験はテレビゲーム・映画などで十分にできる一方で、現実の生活体験が希薄になってきたことだ。沖縄で起きた中学生リンチ殺害事件で、加害少年は「死ぬとは思わなかった」とリンチを続けた。レベルは違うが、うちのガラスを割った中学生が「ガラスは割れるとは思わなかった」と似ている。
 リアルな体験…働くこと・苦労すること・笑うこと・泣くこと・怒ること・我慢することなど、大切にしていかないと

2004年1月 貧乏人いじめ
 
 世の中、貧乏人たちが足を引っ張り合っている。それを見て、不景気とは無縁のブルジョア階級は薄ら笑いでもしているのだろうか。
 岐阜県に対して、県庁舎の自動販売機を設置した県職員互助会から電気代を徴収しないのは違法だとして、山県市の住民グループが訴えた。4月からは互助会側が電気代を支払うことで、裁判は和解した。
 労働者が休憩時間を自由に使い、そこで飲み物を飲むことは自然な行為である。事業者は快適な職場づくりに努めなさいと、休憩室やシャワーの設置などが労働省(現・厚生労働省)の指針で示されている。もちろん、その場合の光熱費は事業者が負担するという前提である。
 労働者の福利厚生までも、住民エゴで否定されるのか。それなら、県職員が県庁で使用するトイレの水道代も請求してもらおう。県庁職員が休憩時間に十分にリラックスし、能率よく仕事をしてもらった方が納税者としてもありがたいのではないか。
 名古屋市に続いて、瀬戸市が自家用車通勤の学校職員から駐車料金を徴収する。公共交通機関がまったくないという立地条件の学校もあるのに。事業者が動労者の通勤条件を向上させるのも、福利厚生である。職員から駐車料金を徴収するなら、自動車で来校の業者・学校関係者・保護者からも、1回300円でもいいから徴収せよ。そうすれば、そのばかさ加減が分かってもらえる。
 公費の無駄遣いというなら、外交機密費とかODAとか大型公共事業とかを追求してほしい。今回の自衛隊イラク派遣でも、いったいどれだけの税金を無駄遣いするのやら。

2003年12月 フセイン

イラクのフセイン(元)大統領がアメリカ軍に拘束された。アメリカのメディアはお祭り騒ぎ。そして、それを垂れ流す日本のメディア。日本の多くの国民は、「悪者が駆逐されてイラクに平和が訪れる」と期待したかもしれない。しかし、その後も自爆テロが続き、イラクの「戦闘状態」は変わらない。
 フセインは極刑にとブッシュは言うが、フセインが犯罪者だとしても、アメリカに彼を裁く権限なんてない。いつから、アメリカは国際警察官になったのか。国際社会のボスの影に、国連はかすんで見える。フランス・ドイツ・ロシアがボスのイラク侵攻に反対し軍隊を派遣しないことが、せいぜいの抵抗になっているくらいだ。どこかの国は、そのボスの顔色をうかがって、自国の憲法を無視してまで、自衛隊を派遣しようとしている。
 朝鮮戦争は停戦中のまま現在に至っているし、ベトナム戦争は長期化したし、大国が介入してろくなことがない。アフガニスタンにしたって、カルザイ政権下で身内優先の政治が行われ、この先どうなることか。  
 国連改革(安保理の常任理事国の拒否権撤廃・構成国の見直しなど)を行い、国連主導で国際紛争を解決する道を確立していくことが、早急に望まれる。
 拘束時の様子がフセイン(元)大統領とオーム真理教の松本知津夫とダブる。どちらも狭い空間に大量の現金とともに潜み、発見されたときは抵抗することなく出てきた。どうも独裁者というのは、いざとなると自分だけ助かろうとするようだ。弱い者ほど、強いもの(権力や武器)を欲するのだろうか。(しかし、拘束後のフセインは薬物を投与されているという情報もある。)

2003年11月 西安事件
 
 中国・西安市にある大学の文化祭で、日本人留学生が破廉恥なアトラクションを披露したところ、中国人に対する侮辱だとして大規模な反日デモが起こった。中国側の「官」による誘導もあったという説もあるが、原因の根本には、日本の若者の価値観と中国人のそれとの大きなずれがあったということだ。
 彼らとしては、中国人を侮辱するつもりなんて全くなかっただろう。だからといって、「こんなことになるとは知りませんでした」で許されるであろうか。かつて日本が中国にしてきたことや現地で感じる文化の違いを考慮していたら、こんなことはしなかっただろう。「井の中の蛙大海を知らず」だね。彼らは。自分たちの価値観はどこでも通用すると勘違いしていた。
 自分がいつも見ている中学生が彼らと重なってくる。問題行動はほとんどないが、校則は緩やかなので服装や身なりがどんどん変化してきた。女生徒の多くはミニスカート・ルーズソックス、さらに進化した生徒はピアス・ネックレス・指輪・ネールアート・化粧。男生徒の多くはシャツ出し・学生服の胸ボタン外し、さらに進化した生徒はピアス・ネックレス・眉そり…。
 学区の大人たちの「中学生が恐い」という声があるらしい。当然かも。その身なりで愛知県の他地区へ行けば、かなりの不良でとおる。私は慣れているので、コワイなんてこれっぱっちもない。中三というより小三と感じるくらいだが…。「身なりで人を判断してはいけない」けど「身なりで判断される現実がある」と、また「井の中の蛙」になっていないかと、学年集会で話をした。ケイタイによる情報社会は、かえって彼らの社会を限定的なものにしているのではないか。  
         

2003年10月 ゆとり教育 

 あと十年もしたら、今回の教育改革は大失敗だったと総括されるであろう。「ゆとり教育」と言われるが、「ゆとり」なんて、現場には全然ない。子どもたちも教員も。
 生活体験が乏しくなり、人間関係をうまくつくることができなかったり、幼稚なものの見方・考え方・感じ方・行動の仕方しかできなかったりする子どもたちが増えてきた。だから、「生きる力」と文科省は言ってきたのではないか。(今の生活科や総合的な学習が「生きる力」を伸ばすとは必ずしも言えないが…。)
 教科内容の「ゆとり」(精選)が低学力を招くという批判があがると、文科省は指導要領は最低の基準だと言い出した。受験体制そのものに手を付けていないから、その批判は当たり前だ。そして、本音(受験戦争に勝ち残る)と建前(豊かな人間性のある子に育てたい)の使い分けもなくなり、本音のみが錯綜する現実となってきた。
 学習成績至上主義で育てられた子は、限定的な知的レベルは高いものの、先ほどの未熟な人間関係や幼稚性をはらみ、アンバランスな成長をすることになる。親のその価値観に沿うことができるうちは「よい子」であるが、沿えなくなると他の価値観が欠如しているため、残された道は逃げるか壊すかになる。その結果、「よい子」が突然(ある意味必然)、不登校・引きこもり・家出などの行動に出るのである。
 改革後、早くも二年で、精選の見直しが始まった。現場は発展的学習もどんどん進めなさいということだ。総合的な学習もさらに充実させよと言っている。おいおい、与党や官僚のみなさん、どんな日本にしたいんだい? 子どもたちに何を望のかい? 異方向のベクトルのなかで、私たち教員はさらに深いカオスに置かれるのだ。

2003年7月 少年事件 

 中学生による殺人事件がまたおきてしまった。これらの事件を特殊な事件ととらえたいのだが、社会的病理現象の一つとして考えていくべき時になったかもしれない。
 沖縄のリンチ殺人の少年たちは「死ぬとは思わなかった。」と供述しているらしい。
 現在担当している生徒が中学一年生の時に、よくガラスを割ってくれた。そのときに、「割れるとは思わなかった。」と多くの生徒が言い訳をした。罪のレベルは全然違うが、言い訳の構造が似ている。
 それは、人をなぐったらけがをする・物をたたいたら壊れるという生活体験が少なくなっていることが原因ではないか。
 テレビゲームではバーチャル(仮想)な体験ができる。しかし、あくまでもバーチャルであって、「波動拳」で殺されても痛くはないし、リセットすれば生き返る。また、ゲーム相手に遊ぶため、人間関係を遊びながら学ぶ機会も少なくなってきている。
 そのため、自分勝手な言動が目立つ・自分をおさえることができない・人間関係をうまくつくることができないなどという中学生が増えてきた。
 やはり、一人前の人間として自立していく速度が遅くなり、中学生の幼稚化が着実に進んできている。    
 

2003年6月 修学旅行 

 修学旅行が終わった。名古屋駅からワイドビューひだに乗って、高山へ。高山では、2年生時から準備してきたテーマ学習。高山の歴史・からくり人形・民俗文化・白川郷・円空仏・家具・味噌・飛騨牛・街作り・和ろうそく・イタイイタイ病。この成果を秋の文化祭で発表する。一日目は富山・呉羽山温泉に泊まった。
 二日目は、立山駅から扇沢までのアルペンルートを班別で行動した。雄大な景色は何回見ても飽きない。雷鳥にも会えた。チェック作業の合間をぬって、みくりが池温泉に入ってきた。日本最高の標高にある温泉だ。今度は、夜に来て満天の空を見ながら入ってみたい。この日は大町温泉郷に泊まった。
 三日目は、クラス別活動。私が共にしたクラスは、ラフティングを行った。ウェットスーツにライフジャケットを付け、急流をボートで下る。堤防を越えたり、岩に当たったり、回転したり、恐そうで恐くなかった。インストラクターの巧みな舵取りのおかげだろう。いや、一緒に乗っていた生徒も一生懸命こいでいたし、チームワークも良かったかな。コース最後の白馬村の温泉もなかなか良かった。 異性の部屋に忍び込む生徒がやはりいて、睡眠不足の三日間であった。生徒たちはどの行程でも遅刻することはなく、しっかりと取り組んでくれたと思う。しかし、中学生の幼稚化現象は証明された。二日目・三日目のバス移動では、「先生、おしっこ」という状態で、臨時にバスを停車されたケースが6回もあったのだ。(8クラスの学年) 小学校低学年の遠足では、「トイレに行きなさい」とよく指導したものだったが、中学3年にも、その指導が必要であった。

2003年5月 ライブ

 今年もゴールデンウィークは音漬けの日々だった。3日は午後からリハーサル。4日は朝入りして、正午から午後6時まで、19バンドによるライブ。高校生バンドからおじさん・おばさんバンド、さらにはプロデビューをめざすバンドまで、旭中ギター部のOBや保護者によるバンドが出演した。そのライブの司会を務めたからだ。今年は5回目で、長久手町の文化の家で開催された。
 前任校の旭中のギター部をバンド部に変身させ、9年間顧問を担当した。5年前、発表の場がないかと保護者から相談され、このコンサートを開催した。2回目以降は、保護者とOBによる実行委員会が企画・準備・運営を行っている。会場使用費・音響照明費・弁当代などを捻出するために、フリーマーケットを開催したり、プログラムの広告依頼をしたりと、毎年、半年前から準備を開始している。
 各バンドの演奏の質も年々向上している。高校生のうちから、ちゃんとしたコンサートホールで、高級アンプ・PAに照明つきで演奏できる環境があるなんて、うらやましい。
 しかし、なんといっても、準備のみならず、終了後の後かたづけや会場の掃除に、実行委員のみんなが一生懸命取り組んでいることがすごい。やつら、中学生時代は掃除をさぼっていることもあったのに…。「最近の若者は…。」というけど、彼らを見てると悲観することはない。音響や照明は専門学校の学生が行っている。最後に、楽屋裏で、学生たちと実行委員・出演者が向かい合い、お互いに「ありがとうございました。」とあいさつする姿は、理屈抜きで美しい。

               
2003年4月 アメリカは嫌いだ

 第1次世界大戦後、アメリカのウィルソン大統領は国際平和のための国際組織の必要性を提唱し、国際連盟なるものができた。しかし、アメリカは議会が反対し参加しなかった。他国に干渉されたくないということで。 
 第2次世界大戦後、国際連盟の無力さを反省し、国際連合が発足した。これには戦勝国が安全保障理事国の常任理事を務め、本部はアメリカのニューヨークにおかれた。この国連も、安保理理事国の常任制・常任国の拒否権ありという非民主的なシステムにより、本来の国際平和実現に機能していない。特に冷戦終結後は、アメリカの一人勝ち状態で、今回のイラク攻撃ではっきりしたように、アメリカは国際連合を尊重する気持ちなんてまったくない。
 気に入らない奴は潰すというヤクザまがいの暴力を「民主化」という旗で隠し、他国に多大な干渉をする。ニカラグアやグアテマラ侵攻・ベトナム戦争など、自国の思いどおりにならないときは、必ず軍事力で解決しようとしてきた。アメリカ民主主義が欺瞞であることは、結局は銃を禁止することができない銃社会であることから分かる。ネイティブアメリカンの土地を銃で奪って銃で守ってきた国だから。
 戦争に犠牲者なしなんてありえない。犠牲になるのは兵士・民衆だ。指揮官や大統領は死なない。どうしてもフセインを倒したいなら、ブッシュが一人でバクダッドに入って、タイマンで勝負したらいい。(武器なしで)
 アメリカが定期的に戦争をしているのは、どうも武器の在庫整理ではないかと思う。軍需産業としては、在庫がたまっていては繁盛しないからなあ。ウエストコーストサウンドは大好きだが、アメリカは嫌いだ。

2003年4月 教育基本法見直しは必要か

 中央教育審議会が教育基本法の改正を文部科学大臣に答申した。教育勅語にかわって、戦後の教育基本法は民主主義の具現化の一つとして制定された。今、「教育の憲法」を見直すということは、どんな不具合がおき、何を意図してのことなのか。その答申の内容から探ってみたい。
 削除が適当とされたのが、第5条(男女共学)だ。その趣旨が広く浸透したからというのが理由だ。浸透したから削除するということなら、たくさんの法律を削除しなくはならなくなる。「法律は最低のモラル」なのだから、残しておいても差し支えないはずだ。なんか無理をして、削除条文を探している感じがする。
 あとは、前文から第10条まで引き続き規定することが適当だとしている。個人的には第10条の「教育は不当な支配に服することなく」という規定が気に入ってるので、いくらかほっとしているが…。
では、何を見直ししたいのか。答申では、以下の8項目の教育理念を挙げ、前文や条文に盛り込むことを提言している。
・個人の自己実現と個性・能力、創造性の涵養(かんよう)。
・感性、自然や環境とのかかわりの重視。
・社会の形成に主体的に参画する「公共」の精神、道徳心、自立心の涵養。
・日本の伝統・文化の尊重、郷土や国を愛する心と国際社会の一員としての意識の涵養。・生涯学習の理念。
・時代や社会の変化への対応。
・職業生活との関連の明確化。
・男女共同参画社会への寄与。
 確かに「生涯学習」・「男女共同参画社会への寄与」というような新しい(より本質的になった)理念が加えられている。しかし、巧妙に「国際社会の一員として」とのセットで「伝統文化の尊重」・「国を愛する心」が、学習指導要領ではもの足りないのか、やはり盛り込まれている。
 国際化というかけ声のなかで、中学校の保健体育に「格技」(主に剣道)が導入され、どこの中学校にも柔剣道場が建設された。音楽にも「和太鼓」・「琴」が導入されている。今までの近代化=西洋化というのも変だが、国際化=国粋化というのもさらに変だ。伝統文化というのは、それなりの魅力があるからこそ永きにわたって引き継がれてきたわけで、強制して続けるものではない。
 「日の丸」・「君が代」を国歌・国旗と法制化し、愛国心を教育の理念に加えたいということは、よほどこの国を愛する人が少ないという危機感があるのか…。夢や希望のある歌なら、みんなが自然に口ずさむ。「君が代」は卒業式で歌わされるが、国民が自然に歌い出すときがあるだろうか。愛国心だって同じだ。この国を愛せと強制されて、愛国心が育つのだろうか。国民一人ひとりが生き生きと暮らせる自然や産業があり、国民一人ひとりが大切にされる政治があれば、自然とそんな国を愛したくなる。
 教育基本法の前文に、「真理と平和を希求する人間を育成を期する」・「普遍的にしてしかも個性ゆたかな文化の創造をめざす教育を普及徹底」とあるが、今、この国で「真理と平和を希求する」とこの国を愛せなくなるからであろうか。
この前文の精神と愛国心の強制とは明らかに矛盾する。今の中学校の現状と同じだ。絶対評価・総合的な学習・選択教科が導入されたが、高校入試制度はまったく変わらない。かえって現場が混乱するばかりだ。その一方で、受験産業がこの不景気のなか右肩上がりで成長している。「21世紀を切り拓く心豊かでたくましい日本人の育成」(中教審)というが、「21世紀の不景気を自分だけ豊かになるために受験戦争を勝ち抜くたくましい日本人の育成」することになろであろう。

2003年3月 携帯電話

 携帯電話とどうつきあうか? かつて、テレビゲーム・「ファミコン」が普及し始めたとき、「子どもたちが外遊びしなくなる」「視力が低下する」などの理由で、多くの教育関係者は反対した。しかし、そんな声をよそに、現在は「プレステ」に主役が移ったものの、テレビゲームのソフトもハードも、大人をも巻き込んだ一大市場を形成している。
 携帯電話も同様に、その普及率は不景気をよそに右肩上がり。単なる電話としてだけでなく、メールの送受信やインターネットへの接続・デジカメ・ナビゲーションまで機能が拡大し、今や、多くの人にとって、情報伝達や情報収集には欠かせない道具になりつつある。便利で楽しめる魅力のあるものが登場したときに、その普及の流れには逆うことは難しく、電話機や通信料の値下げも手伝って、携帯電話を所持する人々(中学生を含む)は急増している。
 学校では使用も所持も禁止という所が多いと思うが、実際はかなりの生徒が所持してきていると思われる。いずれは、携帯電話とどのようにうまくつきあうかということを考えてくことなるだろう。 まずは、携帯電話を使用してはいけない場面を生徒指導部だけでなく生徒会も巻き込んで、生徒たちと共に話し合う。授業やテスト中(漢字辞書として使える)はもちろん、学校での活動中は必要でないという結論を出せるくらいの良識は、彼らにあると信じたい。(学校は直接的なコミュニケーションをするところなのだ。) さらに、通話料を中学生自身が負担することはできないことも考慮させたい。ここで、学校内では必要ないと彼らが納得すれば、学校内では使用禁止というルールが確認できる。 
 次に、どんな場面なら使用してもよいのかを一緒に考える。放課後に家族や友達に連絡をすることがあるとき、校外学習で学校や訪問先に連絡をするときなど、携帯電話があれば便利だと言える。
 学校が学校以外の場面にまで立ち入って、一律にルールをつくるという時代ではなくなり、所持してくることについては、保護者の判断にゆだねることになるのではないか。学校でのルールは最小限にとどめ、生徒たちと共に契約したルールをしっかりと守ろうとする・守らせるということが大切なのだから。

2003年2月 無責任

 川崎市の本屋で万引きをした中3の少年が、警察に通報され逃げ出し、踏切で電車に轢かれ死亡した事件があった。この事件が報道されると、通報した店長に、匿名で「人殺し」というような抗議が多数寄せられ、店長は閉店の決意をするまで追いつめられた。
 万引きをとがめられたとき、偽名を使ったり逃げようとしたら、警察に通報するのは当然である。万引きという窃盗罪を犯し、それが発覚すると、店長には抵抗するが、警察官だと危険を冒しても逃げる行為に、少年の幼稚さが見えてくる。さらに、「たがが万引きぐらいで」という匿名の抗議からは、モラルの低さと匿名という無責任社会が見えてくる。  
 学校にも、匿名の電話がたまにかかる。その場合、生徒指導や学習指導への批判が多い。そして、その多くは誤解からのものであったり、一部の不利益を強調するものであったり、特定の個人を陥れようとするものだったりする。匿名の親切とか寄付とかなら、かえって匿名の価値が出てくるが、匿名の抗議にはうんざりする。それが反映されることは少ないが、関係者は気分を悪くする。
 学校教育では「責任をとる」ということを大切にしていると思うのだが、どこで無責任社会が形成されていくのか…。かつて若者が三無主義(無気力・無関心・無責任)が問題だと言われていた時代よりも、これに無感動・無作法が加わって五無主義だと言われるようになったように、さらに事態は進行している。
 不景気のなか、多くの労働者がリストラされ、賃金カットされている一方で、無駄な公共事業が行われている。これでも、国民は政治家の無責任に無関心でいることができるのか…。やはり、三無主義はつくられたのか…。

2003年1月 人口問題

 社会の地理で、人口問題について教えている。教えながら、改めてその深刻さを感じている。世界の人口は増加中で、10億人に達したのは1830年で、エジプト文明から数えても5000年近くかかっているが、その後200年もかからず10億人増え、2000年には5倍増の60億人になった。このままいけば、2050年には94億人に達すると言われている。
 94億人になったら、この地球がそれだけの食糧や住宅地を供給できるかと心配になる。その頃は生きていないだろうけど…。そうでなくても地球は公害や温暖化で痛み、化石燃料は枯渇しつつある。さらに国際情勢には暗雲が立ちこめ、親分アメリカのイラク攻撃?や北朝鮮の宣戦布告宣言など、国際平和の危機に面している。
 日本の人口問題は高齢化と少子化である。この二つが進行すれば、年金の財源問題はおろか、労働人口は激減し、社会の活力そのものが低下する。このままいけば、2100年には日本の人口は半減すると言われている。
 5000万人の人口の国になったら、高速道路や空港などは現在のままでも持て余してしまう。それらの維持費だってばかにならない。オイルショック以後何でもありになった赤字国債の毎年の発行で、300兆円を超える借金をし、歳費の25%近くをその返済に当てている状況を政府は続けている。「少子化」の子どもたちに、夢どころか年金の高額負担・無用の長物の維持・莫大な借金を背負わせることになる。
 日本の企業の株価が上がらないのは、目先の利益優先の政治により、明るい将来の展望が見えないことも大きく影響しているのではないかと思う。
 社会の授業で、子どもたちが未来に期待を持つことができるような話をしたいのだが、最近はいつも将来を憂うことになってしまう。

2002年12月 給食

 学校給食につきあって、もう何年になるのか。自分の小中学校時代に教員時代を合わせると、今までの人生の昼食のほとんどは学校給食になる。学校給食をメニューにしているレストランがあるが、とても行く気にはなれない。
 日本の学校給食をターゲットにしたアメリカの食糧戦略は成功し、「今朝の朝食はご飯? パン?」と聞くと、半分以上の生徒が「パン。」と答える。補助金農政は米の余剰生産を生み出し、そのおかげで半分以上が米飯給食になった。学校給食はその時代の食糧状況を反映している。
 ファーストフードの駆け出しとしてのセンター方式給食を少しでもおいしく食べようと、粗大ゴミにあった電子レンジを拾い教室に持ち込んだり、海苔や具を持参しての「おにぎり大会」を毎月開催したりと、小学校教員時代はいろいろ工夫してみた。全国統一カレーデーに反対して、六年生の有志とハンガーストライキをしたこともあった。中学校教員時代は、食べ盛りの三年生のために、段ボールにひもを付け、一階の一年生の余ったおかずやパンを窓越しに引き上げて、お代わりを確保したこともあった。
 ずっと給食を食べてきて、食べることがファーストになった。給食は急食? ゆっくり食べていたいのだが、そうはいかない。配膳準備は指導がないと全然進まない。しっかり見ていないと、不正に持っていく生徒もいる。牛乳やおかずをこぼされると、食事中でも掃除タイムになる。
 教員は昼に給食を食べて「休憩」しているではないかという人がいるらしいが、「いっぺん見に来い。」と言いたい。どの教員も給食指導から解放されるなら、その分、労働時間が延びてもよいと思っている。給食がなく外食する短縮期間は、労働時間の真ん中で真の「休憩」ができる。

2002年11月 ギリシア文明と日本
 
 あのギリシア文明は50年間で終わった。自国・ポリスでの生産活動をおろそかにしたからだ。 
 日本は敗戦から奇跡的に立ち上がり、GDP世界2位の先進国になったが、この繁栄はギリシア文明と同じ運命を歩むのではないだろうか。高度経済成長から50年経つ頃、2010年の日本はどうなっているのだろうか。
 年々食糧自給率は下がり、ついに40%(供給熱量自給率)を割った。(フランスやアメリカは100%を超えている。) ポリシーのない補助金農政は、食料生産に夢を与えていない。
 高度経済成長を支えた日本のものづくり技術は、海外生産により流出し、アジアNIESや中国産の物は「安かろう・悪かろう」ではなくなり、日本での産業の空洞化が促進された。
 こういった生産物の問題だけではない。モラルの低下も底が見えない。殺人事件は後を絶たないし、政治家や資本家の癒着も相変わらずである。
 若者のモラルの低下も激しい。北海道・西友の返金事件で見えたように、性善説に立ち自己申告によって返金に応じたことが、携帯メールの「西友に行ったら、お小遣いもらえるよ。」という情報に変わり、肉を購入していない若者が押し寄せた。西友が返金を打ち切ると、暴動にまで発展した。(15人が不正申告を反省し、西友に「返金」を返金したのはせめてもの救い。) だめはだめとして教えてこなかった教育の成果か…。 
 冬季オリンピック開催地としてのサラエボが10年も経たないうちに、あのような悲惨な姿になるとは、誰が想像できたであろう。この日本の2010年は、想像もできないものになるのであろうか。

2002年10月 研修とは

 私たちにもやっと週休二日が与えられたと思ったら、「先生は週休二日に夏休みもあって暇だ!」なんて、やっかみぽい批判を受け、夏休み中に自主的な研修することすら後ろめたい雰囲気になってきた。
 何年か前、私は夏に、大型自動車の免許取得に挑戦した。自動車学校には通わず、運転免許試験場で大型トラックを借りて練習した。そこの指導官に、エンストすれば「車が壊れる!」、ウインカーを忘れると「何やっとるんだ!」、あわててウインカーを出すと「いっぺんに二つのことするな!」と怒鳴られ、一度もほめられたことはなかった。そこで、「Sの字はもっと速く回れ!」を「クランクはOKで、Sの字はもう少しスピードを出せばOKなんだ。」、「お前、試験受けたか?」を「もう試験受けてもよいくらいになったんだ。」と読み替えた。人に教える仕事をする者として、このことはとてもよい研修になった。
 今年は、ホームページづくりに挑戦した。HPづくりに堪能な人に聞いてつくれば早いが、あえて誰にも聞かず本やヘルプを見てつくった。トップページのファイル形式をhtm.にしたが、ケーブル会社が用意したトップページhtml.を削除していなかったため、ずっと開設できなかったり、フォルダーを後からつくったらリンクがすべてだめになったり、試行錯誤の連続だった。何とか立ち上がったときは、一人で乾杯した。
 教育委員会や市の研究室が企画した講演会よりも、この自己研修がうんと自分のためになったと思う。教員に研修は必要だとされているのに、不景気のなか足の引っ張り合いに乗っかって、講習会だの講演会だのへの参加を義務づけることが教員の質の向上につながるだろうか? つまらない講演会は寝ていても参加したことにはなるし…。

2002年9月 性楽説

 性善説か性悪説か、よくそんな議論をした。小学校の低学年を担当したきは、思いやりのある子どもを見ると、人間はもともときれいな心を持っているんだと性善説派になる。高学年や中学生を担当し、何度も信頼を裏切られると、やはり人間は自分のことしか考えないんだと性悪説派になる。
 総合的な学習の時間を使い、林間学校(キャンプ)の準備をした。「総合的な」だから、近くの町(付知町)までバスで出かけて調べ学習をしようと提案した。林業や家具製作、付知中学校との交流などのテーマを出してみた。付知中学校にはかわいい女生徒がいるかもしれないとの一言に、一瞬目の輝いた生徒がいたが、結局はキャンプに行ったら遊びたいということで、私の提案は生徒たちに却下された。学校行事では、苦労するより単純に楽しみたいってことなのだ。
 そう。今、そのどちらでもない「性楽説」を唱えたい。つまり、人間はラクな方向に進みたいのだ。すぐにてきぱきと動く人は後でラクをしたいからだし、のんびりとしている人は先にラクをしているのだ。
 総合的な学習や選択教科では自ら進んで学ぶ姿勢が求められている。性楽説を前提にすると、それらの教科では、彼らは安易な方法で軽い内容のものをこなすだけではないか。自ら学ぶ姿勢のレベルに到達するためには、まず基礎基本の学習にしっかりと取り組む姿勢が必要ではないかと思う。このままでは、かつて言われた「這い回る経験主義」の時代に回帰していくのではないか。

2002年6月 ぜいたくは素敵だ

 社会の授業は、日中戦争・太平洋戦争に入った。そのときの日本は、第一次世界大戦中のバブル景気がはじけ、金融恐慌・世界恐慌と戦後の不景気がさらに深刻化していた。日本もイギリスやフランスのようにブロック政策をしたいなと、満州を手始めに中国・東南アジアと植民地を拡大していった。国内では、治安維持法に加え国家総動員法を制定し、大政翼賛会で政党や労働組合をつぶした。
 授業をしながら、ふと思った。なんか、今の状況と似てないかと。政府の有効な経済政策もなく不景気が続くなかで、国会で審議されているのは、武力攻撃事態法案・自衛隊法の改正案・個人情報保護法案である。小泉首相は「本土決戦」を決意したのか、地方自治体・公共機関への首相権限・有事の際の国民の協力(罰則規定あり)・言論の自由の制限を盛り込み、ソフトな戦前化を進めている。
 配給切符や赤紙を見せながら、標語について考えさせた。「『ぜいたくは敵だ』という標語に、本来落書きは許せないことだけど、許せてしまう落書きをしよう。ただし、一文字だけで。」と。「ぜいたくは無敵だ」と意味不明な意見もあったが、「ぜいたくは敵だ」と正解が出る。そこで、「いつもぜいたくはよくないけど、たまにはぜいたくができる世の中がよいと思いませんか。今日は奮発して回転寿司に行くかというようにね。」(おいおい、奮発して回転寿司かよ!)
 
2002年5月 学力低下?

 総合的な学習の新設・選択教科時間数の増加・教科時間数の削減・絶対評価の導入という新学習指導要領が実施されるが、受験制度は何も改革されない。そうなると、競争原理に基づく相対評価を改め「生きる力」を培うという学校のタテマエと、競争に勝ち抜き少しでもレベルの高い高校に進学させたいという親のホンネとが、中学校では交錯し、ぶつかり合う。そのジレンマのなかで、私たちは仕事をしなくてはならないそして、「学力低下」というときの「学力」とは、多くの場合、受験向けの「学力」を指し、今まで以上に「学力」向上の使命を私たちが受けることになると思う。
 新学習指導要領では、教科の学習内容がさらに「精選」され、場合によっては、その「精選」が基礎として必要な領域にまで及んだり、系統性を崩したりしている。したがって、受験向けの学力としてだけではなく、社会人として自立していくために必要な学力が身についていくのか、確かに心配になる。「悪徳商法にだまされない」という授業で「口頭でも契約が成立する」と教えても、「ケイヤク」って何というレベルでは授業がすすまない。
 中学3年生では、総合的な学習が週あたり2時間以上・選択教科が週あたり3時間以上の実施が義務づけられる。そんななか「使命」や「学力」のことを考慮すると、選択教科で基礎学習・習熟学習をすすめていく方式が、「ジレンマ」から抜け出す一つの有効な手段になると思う。私の勤務校では、選択教科は全教科で展開し、すべて基礎・基本的な学習を中心にすすめていくことになった。選択教科①では、国語・数学・英語の3教科・各3ランクのレベル・9クラスを学期ごとに生徒が選択し、基礎・習熟学習に取り組む。選択教科②・③では、社会・理科・音楽・美術・技術・家庭・体育から重複しないように生徒が選択し、それぞれ基礎的な領域を学ぶことになった。つまり、選択教科では、生徒自身が自己の課題にそって「学力」を充実させていくということだ。
 公立中学校では、当然のことながら、学習内容の定着度の高い生徒から低い生徒までが入学してくる。定着度の低い生徒への対応を間違えると、彼らは授業エスケープしたり、怠学の不登校になったりする。受け持ちの授業がない空き時間には、そういった生徒への対応に追われ、教材研究や授業準備ができないときもある。学校生活の基本である授業に、いかに参加させるかという課題もかかえている。「学力」至上主義に中学校がはまると、ドロップアウトする生徒を製造しかねない。
 中学生の「学力」をつけていくのは私たちの仕事だが、最近、幼稚化している中学生をいかに自律と自立のサポートをしていくことも大きな仕事になってきている。自律と自立へのサポートは「学力」をつける仕事に相反することにはならなくて、むしろ「学力」向上への必要条件ではないかと思う。 (『お・は』15号所収)
 
2002年3月 少年犯罪

 東京都東村山市の中学二年生の三人が傷害致死容疑で逮捕され、一人が児童相談所に通告された事件は、衝撃的だった。少年らは「図書館で騒いでいたら注意され、腹いせにやった。」「他(の少年)がやるので悪いとは思ったが、殴ってしまった。死ぬとは思わなかった。」と言っている。
 また、その保護者のなかには、わが子に対して、「しかったことがない。」「どのように言っていいのか分からない。」と報道機関に述べている。
 この事件から、
・被害者がホームレスであったことから、ホームレスに対する差別意識があったのではないか。
・「死ぬとは…」から、長時間にわたって人を殴ったら、人が死ぬことを認識していなかったのではないか。
・「注意され、腹いせに…」「しかったことがない」から、ふだんから、いけないことはいけないと教えられていなかったことが 背景にあるのではないか。
・「他がやるので…」から、「赤信号、みんなで渡れば怖くない」的な集団心理が働いていたのではないか。
と、まだ詳細は分からないが、そんなことを感じた。 
 心の揺れが大きい中学生、時代の急速な変化と共に彼らの心も変化し、特に彼らが幼稚化(自立が遅れ)してきているのではないか。最近おきた多くの少年犯罪の背景に、この幼稚化現象があるのではないかと思う。
 
2002年2月 成人式

 成人式に参加した。僕二十歳? いや、旭中時代の教え子たちが二十歳になったから。昨年あたりから、“荒れた”成人式が報道され、ここの成人たちは静かに話を聞くことができるのか、やや心配な気持ちで市民会館に向かった。
 第一部の式典が始まった。司会は成人の実行委員だが、話すのは市長に国会議員。議員さんの話が上手だったこともあったが、本当に静かに成人たちは話を聞いていた。へえ、やるじゃんと思った。
 第二部のパーティ。席をなくして、円卓を囲む立食型になった。解放感が漂い、さすがにうるさくなった。そのとき、実行委員から、乾杯の音頭をとれと依頼された。マイクを持って、「みんな、生きてたかい!」としゃべった瞬間、今までのざわめきがあっという間に消えた。思わず予定外に「こんなにマナーのある成人たちがいることを広く伝えたいね。テレビ局はここの会場を取材してほしいね。」と付け加えてしまった。 
 中一から中三まで受け持った彼らは、三年間でぐんと成長し、たまには「怖いおじさん」役もしたが、基本的にこちらの信頼に応えてくれる学年になった。二年生時の室長会行事・ジャンボカルタ大会では、横にいた新聞記者に、「今はうるさいけど、この後チャイムが鳴って、前で室長が話し出すとすぐ静かになるから見てて。」と宣言して、本当にその通りにできた。
 気持ちのよい成人式だった。でも、やはり、晴れ着を着て化粧をした女の子たちを見て、いったい誰であったのかなかなか出てこなかった。卒業アルバムを見て、予習して式に臨んだのだったが…。