飛鳥時代に日本に多層塔の技術が導入された後、塔の建築ラッシュがありました。6世紀末に始めて塔を作ってからたった30年余りで40以上もの塔が立てられたのです。60年後には百済のものと同等の高さの巨塔を立て、150年後には世界最大の木塔を立ててしまったのです。現代でも日本は、技術を導入してそれを発展させていくのは得意ということになっています。自動車も日本に入って約100年で今のような発展をとげました。この特質は御先祖様から受け継いだ貴重な遺産なのかも知れません。
中国を起源とするらしい多層塔が、百済を経由するなどして日本に伝わりました。その頃の塔の外観は、日本ではいくつかの例外を除いてあまり変化しませんでした。一方、中国の塔の形は八角になったり、タイルのような「せん」を用いたり、プロポーションもさまざまに変化してゆきました。誰かが、自信をもって独創的なことを行って変化していったのだと思います。そういえば、ストゥーパを多層塔に変化させてしまったのも中国でのことでした。このような外観という意味でのオリジナリティは日本では発揮されなかったわけです。「外から入っていったん確立してしまったものを、自ら変えることが苦手だ」 という言い方もできると思います。自動車もトップランナーたるためには、自信をもって独創的なものを考えていかなければならないと改めて思います。
外観はあまり変わらなかった日本の塔ですが、中の構造は次第に改良が加えられています。昔の人も決して手をこまねいていたわけではないのです。たとえば、深い軒を支えるための構造部材が垂木から桔木(はねぎ)にかわったことや、塔身だけを先に立ち上げられる部材の組み方などです。作り方の改良は昔から得意だったのでしょう。面白いのは、こうやって構造が変わり、不要になった部材も外観を変えないようにそのまま残されている点です。デザインは変えないように中身や作り方だけ変えているのです。デザインの好みは保守的だったのでしょう。
それぞれが一品料理とも言える塔にも、古くから標準化やモジュール化が行われてきたということがわかりました。いうなれば、塔のプラットフォームです。自動車のような大量生産品でプラットフォーム化を行うのは当たり前ではないかと思いました。
法隆寺宮大工の故西岡常一さんが伝えてきた口伝に塔組みは、木組みというものがあります。その中でも、人の心組みについて 加工精度の低い工具で、不揃いの部材ができたとしても、一つに統一のとれた塔を作るためには人の心を一つにそろえて当たる必要があるのだと 書かれていました。このためには信仰心もあったのでしょうが、ものを作る時のマネージメントというのはいつの時代にも必要だったということなのでしょう。
木組みは、木のくせ組み
木のくせ組みは、人組み
人組みは、人の心組み
それ以外に面白いと思ったのは、棟梁が作った1/10程度のひな形を見て完成した姿を皆が共有する という点でした。アウトプットイメージを共有して事にあたることで、モチベーションも高まるし、間違いもなくなるということでしょう。
<Home> <戻る> Last Updated : 12-Jan-2003 by Naoki