「あいもの」とは
 「あいもの」とは「相物・間物・合物・四十物」と書き、鮮魚と塩魚の中間の物を言う語である。
 古くは927年(延長5)に完成した『延喜式』で魚の加工を漬塩・煮塩(塩水で煮て乾燥)とに分けており、塩魚と乾魚が区別されていたことが分かる。
 鎌倉時代になると、商人の組合である七座のひとつに「相物座」というものが見られる。この頃から「相物」という言葉が使われるようになり、相物商人によって乾魚を相物と呼び、特権的に商売されていたようだ。このことは『庭訓往來抄』に
七座の店とは・・・・・・六に相物座とて、魚鹽(塩)うるざなり
とあることからも分かる。
 そして1300年代になり、『太平記』の(先帝船上臨幸事)に
船頭是を見て、角ては叶候まじ。是に御隠れ候へと申して、主上と忠顕朝臣とを船底 にやどし進せて、其上にあひ物とて、乾たる魚の入たる俵を取積で、水手梶取り其上 に立ならんで、櫓をぞ押たりける。
とある。このことについては、『橘庵漫筆』に
相物と云は鹽魚の総名なり。小あひ雑喉と云も、小相物と云を略して小相といえり。 太平記に隠岐の國より天皇を相物積し船に乗奉りて、地の方へ送り奉るといふも鹽魚 船也。
とあるように、この頃相物は塩魚の総称となっていたようである。その後、『康富記』『東?子』などの文献に「あいもの」は見られるが、中でも『碩鼠漫筆』の記述が興味深い。
あひ物といふ物二種あり。承應二年刊本の江戸大絵図に、あいものがしとあるは、 今の小船町河岸なり。按ふにあひ物とは鹽物類にて、鮮魚と干魚との間物の義なる べし。今はふつに知る人なし。されど他國には乾魚ひさぐ家を、いまもあひ物屋と いふ処ありともいへり。何れの國なりけむ慥にあぼえず。但、文安六年三月一日、 中原康富朝臣記云、晩従飯肥入道、有音信即向之、有暮?、雑談之次云、ひうを□ □□物をあい物と申。此字不審云々、予云、あい物とは、あきない物と云へる事と 存候。あきない物をばあい物と申候。あきないの事、商の字を可読にて候由之処、 又或者一條殿へ内々尋申て候へば、商物と可書歟之由、御返事ありと云々。さては 同事之由語了みえたれど、こは信がたき強説にこそ。
つまり、「あいもの」には二種類あって、”鮮魚と干魚の間の物”と”商物”だというのだ。しかし、最後には”商物”と解釈する説は強引で信じがたいと筆者は述べている。このことは「あいもの」に関連して「間物売」「あいものし」「間物屋」などの名詞が他の文献にも見られるので否定的に捉えて良いと思われる。
 そして、江戸時代になると、江戸や大坂ではしだいに「あいもの」という言葉が使われないようになり、干肴と呼ばれるようになった。都市以外の地方ではこの時代を通じて「相物」が使われ、乾魚に限らず塩干物を総称して使った例も多い。
 また、柳田国男の『総合日本民族語彙』では、「あいもの」について
塩漬の魚などはシオアイモノと呼び、本来、間物ではなかったらしい。
採取期と採取期との中間の食物、すなはち、主として干して貯えてある魚類・海産物 鰹節や干海老をそう呼んだのである。
としている。
 このように見てくると、「あいもの」とは、その時代において多少の意味合いに違いはあるが、総じて鮮魚ではない、乾かしたり塩にしたりしておいた海産物であることが分かる。
 では、何故その「あいもの」に「四十物」の字を当てたのだろうか。ここまでの文献で表されている文字は「相物」「間物」だけである。「あいもの」と「四十物」にはどのような関係があるのだろうか。