魂の見方 僕にとって「魂」とは「私」とは何かという問題です。
現代の日本人はあまり「魂」という言葉を使わなくなりました。唯物論的世界の安楽さにすっぽり浸かっているからでしょう。そうなったのは戦前の宗教的・精神論的世界観への嫌悪によって行われた教育からでしょう。(ただしアニメの世界では多用されているようです。)
僕としては、ひとまず「魂」とはこの世界を見ている『意識』ということで使います。
「魂」は一般には霊魂という不死の『精神、心を伴った生命の元』でしょう。霊と魂を別個に考える場合、霊とは精神的主体のようなものです。日本人の場合、「魂が入っていない」とかいう表現、心の奥の真実みたいなものを示す表現としても使います。
霊魂と精神を分けて考えるのはキリスト教徒です。彼らの間では、霊魂(精神と分離させているのは、おそらく生命の元といいう考えなのでしょう、それをここでは命と呼ぶことにします)は一般にその人の誕生のときに神が作ったものと考えられているようです。しかし、アダムとイブのとき神から与えられて以来、累々と親から遺伝されて来たと考える人たちもいるようです。また、キリスト教徒にも前世というものの存在を信じている人たちがいるというのには驚かされます。どちらにしても魂(命)は神が作ったものです。
少数派として、魂(命)の存在を信じない人たちがいるというのも驚きです。世界に対しては、神の創造以外はまったく唯物的な考え方といえますが、神だけが霊魂的に存在すると感じるのでしょう。
キリスト教徒の間での魂に対する考え方を見ると、魂に対する基本的な考え方がそこにあるようです。
1,魂は純粋な命であり、精神や心は別である。2,魂は精神を付与された命である。3,魂は心を持つ命である。4,魂すなわち命は存在しない。神は精神と肉体を作るのみである。
グノーシス主義者ヴァレンティノスの考え方おける魂は3,でしょう。「魂は生命そのものである」とする異端的な「エホバの証人」は4,の考えのうちにはいるでしょう。
科学の祖とでも言うべきアリストテレスには物質的霊魂とでも言うべき考え方があります。
形相因、質料因、動力因、目的因です。彼はこれらの霊的力の展開として世界・宇宙のすべてをとらえようとしたのでしょう。人間の魂についてはおそらくプラトンソ・クラテスの延長にあるのでしょう。
西洋中世の錬金術にはこの思想の影響が強いそうですが、もともと錬金術は霊的原理を操作して貴金属を生成させる秘儀、魔術のようなものでした。
アインシュタインに典型されるように、科学を発展させたのは唯物的精神ではなく、むしろ宗教的精神でした。