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「般若心経」 内容については「つばめ堂通信」に詳しいようです
仏教といえば般若心経といわれるくらい有名な経文ですが、いくつかの般若経典から、「空の思想」によってまとめられたもののようです。抜粋された語句を並べたようなもので、呪文のようなもののようです。それゆえに論理的ではないようですから、解釈するべきものではないでしょう。多くの知名人が解説を行っているようですが、本来「如来」から語られたことばと無条件に受け入れるべきものだといわれるようです。「般若心経」を唱えれば「如来」の神秘な力に近づけるということなのでしょう。それゆえに「大神呪、大明呪、無上呪、無等々呪」なのです。しかし、言っていることは、「諸法空相(世界は関係性であって実体はないということ)」が「如来」から見た世界の実相ということに尽きるでしょう。この真実・実体は「不生不滅、不垢不浄、不増不減」、すなわち始めも終わりもなく、変化することもないもの、『如』に他ならないでしょう。 |
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維摩経 引用は「つばめ堂通信」による この経典は般若心経の心を現実の生活に映したものと言えるかもしれません。「空」を生きるとはどういうことかを表現しているということでしょう。 主人公の維摩があらゆる仏法を体現する身でありながら、世俗の人として生きるのは「如来」の「慈悲心」からだということでしょう。この経典には「方便」という言葉がしばしば出てきます。維摩は「如来」の衆生を教え導く方便としての姿のようです。「方便の縛と解」の項では菩薩も衆生を救う方便として生まれるといいます。目的を持って生まれてくるというところが不可思議です。仏教者たちはこの経に自己の内なる仏を、「諸法空相の世界」における「如来」の体現とするところに大乗仏教の神髄を見たのでしょう。 衆生済度の方便として仏国土を飾り立てるのですが、衆生の欲するような(豊かな生活ということでしょう)仏国土を作ってはいけないといっているようです。また自らの煩悩をそのままにして善行(衆生済度の方便ということでしょう)をするなともいっています。親鸞のことが頭に浮かびます。大衆にとって嘘も方便は当たり前のことですが、大衆と同じ次元で生きるということではないようです。 「見阿?仏品(けんあしゅくぶつぼん)」に、「如来」とは「我が身の実相と同じであり、過去・現在・未来のものでもない。身体も心も見ることができない」と語っています。「あれでもない、これでもない」、つまり何ものであるか語ることのできない存在だということでしょう。あるいは「あれでもあり、これでもある」ということもできたでしょうが仏教は常に否定的です。「涅槃のものでも世界のものでもない」、しかし「過去・未来・現在に通じていて、すべての煩悩から自由であるとともに、無明(根本煩悩)を身体に供えている」といいます。身体とは「諸法」に他ならないでしょう。 「文殊師利問疾品」に「我も涅槃も、この二つはみな空である」といい、「空とは名があるのみ、それが空なのだ」といっています。我欲も悟りも実在しない。それにとらわれるなということでしょう。そのように仏法を生きることによって「如来身が生まれる」(「如来」の心力を持つことができるということでしょうか)ということのようです。 維摩経を「不二法門」というのは、要するに一切の差別意識を否定しているからでしょう。それが解脱の境地であるといっているようです。もちろん世俗のままの解脱心ということでしょう。この経典には大乗仏教を知る上で興味深い言葉がたくさんあるようですが、要は、「如来」の本質は慈悲心であり、それは衆生とともにあるということのようです。大乗仏教の理想を著わしているといえるでしょう。 この経は別名「不可思議解脱経」ということで、「不思議品」では、解脱の境地にある仏や菩薩は自由自在に世界を操れるようなことをいっていますが、空想的なインド人らしい誇大表現でしょう。それくらいすばらしいことだと言いたいのかもしれません。それが大衆済度・教化の方便ということでしょう。あるいはまた、古代のことですから実際にそういう気持ちになった人がいたかもしれません。 |
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法華経 「法華経」の成立時期は、分かっていませんが、紀元40年頃~150年頃とされています。もっと遅くまで、様々な説を吸収しながら、段階的に成立したのかもしれません。 内容は「維摩経」のいう「方便」として、釈迦を「如来」として讃えあげることによって「唯一無二」の仏教を構築しようと、過去の経典を編集したもののようです。 「法華経」で最も重要視されているという「如来寿量品」では、釈迦という存在を超えた「久遠仏」について説いています。仏教の世界観には創造ということがありませんから、いつどこで如来が誕生したかを説明するには久遠の昔というのが神秘的で良さそうです。この「仏」にはものすごく長い寿命があるということですがなぜ「無始無窮」といわないのでしょう。それは無始無窮常住なる真実『如』から来たもの、『如来』だからでしょう。 (久遠とは永劫ともいえるでしょう、その裏には「宇宙には劫という寿命があり、劫が尽きればこの世界は終わるという考え方があり、そのとき『如来』もまた消滅するものでしょう。しかし仏教は宇宙の始まりがいつであり、終りがいつであるということには興味を示しません。ただむやみに長いだけです。) 無量・無辺・百・千・万・億・那由佗・阿僧祇の国や時間、三千大千世界が語られ、菩薩や仏が無数に登場するところが壮観です。これでもかこれでもかというくらい有り難がらせてくれています。 仏にはそれぞれの国、浄土があるというのも壮大です。あるいは神々にもそれぞれの国もあるのかもしれません。とどのつまり世界中のどんな宗教も「法華経」世界の中に存在すると言うことができます。 この経典の精神は「方便品」にありそうです。法華経以前の経典は方便としての教えだとしているようです。そうすることによって、それ以前の仏教思想を総括したもののようですが、主題は法華経信仰の賞賛と功徳についての物語のようです。「維摩経」を理とすれば、こちらは行です。「維摩経」は菩薩たちに「法」を説くな、「大乗という正しい法」のすばらしさを説けといって、仏教者の大衆に対する心得を教えているようですが、「法華経」は教える内容といえるかもしれません。 「従地湧出品」では小乗の菩薩たち(おそらくバラモン出身が多かったでしょう)を否定し、大地からわき出る無数の菩薩たち(地湧菩薩、つまり商人など庶民出身の仏道修行者ということでしょう)に「法華経」を託しているようです。 後編には様々な民間信仰を取り入れたらしい菩薩たちが列挙されているようです。最も有名なのが観音菩薩です。阿弥陀如来のことも言及されているそうです。すべては「法華経」一乗にということで、きわめて権力主義的ですが完全に統一が取れたものではないようです。 いたずら書きで仏像を描いても、それが仏になる道だといいます。金で供養しても仏になれるというのですから実に簡単です。どんなに悪逆無道な人間でも、一言でも仏の言葉を聞けば成仏間違いなしといいます。つまり、それによって仏の種がまかれたということかもしれません。いや、衆生はすべて仏種を持っていて、それが芽を出し始めたということかもしれません。 法華経に出ている金持ちたちは王さえ呼びつけるくらいの桁違いの金持ちのようです。一体どうやって儲けたのか疑わしいばかりです。しかしそうした金持ちや悪人でも仏となり得るという思想によって、金持ちたちの魂?が救われ、仏教教団の勢力を大いに拡大したのでしょう。この経を支持擁護し、推進したのは比較的裕福な人たちだろうと想像できます。 「安楽行品」には菩薩の行為と心構えとして、第一に世間から距離を置いて閑居座禅をせよと言っているところありますが、「法華経」の精神からいうと異質と思う人(「現代語訳大乗部仏典・法華経」(中村元)によると聖徳太子もその一人のようです)もいたようです。しかし「従地湧出品」にも、地湧菩薩たちについて「常行頭陀事 志樂於靜處 捨大衆憒閙 不樂多所説 如是諸子等 學習我道法 晝夜常精進」<『大正新脩大藏經』より>(彼らは常に清浄な心で仏道修行を行い、世間の喧噪を避けて静かな生活を愛し、多くを語ることを好まないという様な意味)とあります。 法華経の出家行者(菩薩)の心構えについての教えのようですから、そういう時を持つことが物事の本質を観察するために必要であり、特に世俗の誘惑が多いときなどには大切だということなのでしょうが、とってつけたような感じもします。大衆向けには、このお経さえ信じていれば誰でも仏になれそうなことをいっていますが、菩薩になるためにはそれ相応の修行、孤独な時間が必要なのでしょう。 第二の心構えは、大乗の中心思想となる「空」です。「一切の法は空なり、如実の相なりと観じて、ただ因縁によって仮象として存在していると見る」のが菩薩の心だといっています。「維摩経」では「名のみ」であった「空」が「如実の相」となっています。「如実の相」というのは、実体の如き姿をしているということでしょうか。何の仮象でしょうか、どのようにして仮象をするのでしょうか、仮象をさせる主体は何でしょうか、それを知るには学問と思惟が必要でしょう。菩薩になるには自力も必要なようです。現実はそれほど単純では無いということです。ただ闇雲に信じているだけでは優れた指導者にはなれないのです。(日本的仏教では方便が真理のようになって、一人歩きしている感があります。) 追記 法華経28品(章)といって、25品は阿弥陀如来について言及している経典「観世音菩薩普門品」です。しかし、これを法華経本来のものではないと考える人が多く、法華経27品というそうです。 阿弥陀如来に付いては23本「薬師菩薩本地品」に「女人であっても、この経典を聞いて説の如く修業すれば、死後は、安楽世界の阿弥陀仏の、大菩薩衆に囲まれているところで蓮華の中の宝座の上に生まれるだろう」といって女人成仏を語っています。 法華経は、「法華無内容」とがいわれるように、一見何も説いていないように見えますが、万人の成仏を語り、あらゆる仏教思想を集約しようとしている節が見えます。そのために多くの仏の世界が語られています。阿弥陀如来の世界に言及しても当然という気がしますが、日蓮のように阿弥陀信仰(日本的な、かもしれませんが)を憎む人には違和感を与えるのでしょう。 毘盧遮那仏の世界は語られていないようですが、宇宙仏であって仏心仏でないからでしょう。 |