大乗の主要経典2華厳経 涅槃教 無量寿教・阿弥陀経 主要経典1 
   華厳経   
 華厳の世界は法華の世界のような大乗と小乗の優劣を問わないようで、自力も他力も差別なく、自利即利他、利他即自利の世界といえそうです。「法華教」は大衆に向けて仏教のありがたさを教えるためのもののようですから分かりやすいのですが、「華厳経」は釈迦の悟りの内容だとされていますから、求道者や修行者向けのもののようで難解といわれます。大乗仏教の深い哲学思想を著わしたものいわれています。しかし、実態は、多くの僧たちの悟りの境地、神秘体験の集大成という感じです。彼らの求道心、魂の感動の深さを思わされます。神秘体験から生まれた思想ですから非論理的で頭で理解するべきものではないように思われます。
 東大寺の大仏(毘盧遮那仏、盧舎那仏とも言います)開眼供養の導師を勤めたインド僧はバラモン出身だということですが、華厳経は法華経よりバラモン教の影響が強いようです。中村元博士は多国籍といっています。シルクロードに集まった多くの神秘思想から編纂されたのでしょう。そのために人種や階級を超えた広大な世界観が構築されているのです。
 「法華経」における「久遠仏」の上に「毘盧遮那(太陽の輝き)」という形容詞をつけ、その光に照らして千大千世界を細密に描き、無限の深み、無限の厚みを与えたようなものといえるかもしれません。仏の世界を荘厳するための経典ともいえます。
 釈迦の悟りの内容といっても釈迦自身が語るのではなく、菩薩たちの質疑という形式で語られているのです。『如来』の沈黙に大きな意味がありそうです。釈迦の内界での出来事として解釈することができるでしょう。そういう観点で見ると、無数の『如来』・菩薩の存在する意味は、菩薩とは、釈迦の心にはそれだけ多くのものの見方、考え方、視線のようなものがあり、そのすべてがまた『如来』の現れだというように理解できます。菩薩のみならず衆生もまた『如来』の心の一面と見ることができるでしょう。
 「盧舎那仏品」の出だしに「如來無量曠劫行 自然正覺出世間」とあります。「如来はものすごく長い間の修行によって自然に悟りを得た」ということでしょう。(自然にというところが意味深です)。そして「事事無碍法界」といわれる悟りの世界、壮大な神秘的宇宙観が展開されています。
 「菩薩明難品」では、文殊菩薩が十人の菩薩と質疑応答する形式になっています。
 まず最初に「人間の運命はどうして違うのか」、「真理は一つなのに何故多くの教えがあるのか」、「何故多くの悟りの道があるのか」という質問に答えています。その答えは「すべてのものは自性を持たないから」だといいます。これだけでは答えになっていると思えませんが、他の菩薩との質疑応答をまとめると、「業・因縁」によるものということのようです。世界は「諸法空相」ですが、「業法」と「因縁法」における差異によって差別が生じているに過ぎないということでしょう。だから差異にとらわれるなということでしょう。仏教の基本的態度のようなものです。
 「宝王如来性起品」では「真理による救済とはどのようにされるのか」という質問に答えています。「それは一概に答えることはできない。なぜなら、仏は限りなく多くの因縁を経験して悟りを得たのであるから、衆生に対しても、その機根に応じて違ってくる」ということのようです。これも結局、複雑な関係性の中での結果だということでしょう。
 ただし時間的視野がないので人間関係に生じる利害損得の感情・思惑を否定している点は、仏教の時間的視点の欠如を表しています。成長という視点を持てば、人間の愚かさも調和の中にあるというべきでしょう。
(機根とは業・因縁による魂の様相ということでしょうか。しかし、釈迦は無数の経験を積んで仏になったというのですから、経験による違いといえるでしょう。経験が魂を成長させて釈迦は仏・如来になったといえるでしょう。時間的視線の薄い仏教は成長という考えをしないようですが、もし魂の成長という考え方をするとしたら、『如来』の超人性は色あせて、宗教的ありがたみがなくなるかもしれません。)
 もっとも興味深いのは「入法界品」の善財童子の物語です。善財童子は覚りを求めて53人の、あらゆる階級、あらゆる職業の人々を訪ねて教えを請い、最後に普賢菩薩の教えによって悟りを開いたということです。なかでも特筆すべきは遊女の教えでしょう。遊興の中にも仏の世界があるということ、さらにいえば、善も悪も、浄も汚も、森羅万象すべて仏の現れでないものは無いということを語っているという気がします。
 「普賢菩薩浄行品」に「懺悔文」があります。
我昔所造諸悪業(がしゃくしょぞうしょあくごう)
皆由無始貪瞋癡(かいゆうむしとんじんち)
従身語意之所生(じゅうしんごいししょしょう)
一切我今皆懺悔(いっさいがこんかいさんげ)
 彼も衆生の頃から様々な失敗、過ちを犯してきたのです。これもまた釈迦の心というものでしょう。
「夜摩天宮菩薩説偈品」の「唯心偈」と呼ばれる詩句は華厳の本質を語っていると思われます。詩句に「一切は心より転ず」とあります。様々な「如来」もまた心が造ったものだといっています。「如」は一つですが、「如来」は人の心によって様々に現われるものということでしょう。
 「三界唯心」、「心」は「如来」であり「如来」は「心」である。矛盾に満ちた心、矛盾に満ちた世界、それがそのまま仏の世界ということでしょう。毘盧遮那はその全体を照らしているということかもしれませんが、照らしているとはどういうことかも問題になるところでしょう。その答えは、毘盧遮那仏は世界現象の原理すなわち「諸法」を象徴しているといるということでしょう。


  涅槃経
 「如来蔵思想」と言われるこの経典の主題は次のように語られています。
 金剛慧菩薩(金剛のように強く正しい知恵を持ちたいという心を象徴していると考えます)の「この腐敗した世界において衆生が『如来』に帰依しています。なぜこのようなことが起こるのでしょうか」という問いに、世尊(釈迦仏のことと思っていいでしょう)が答えます。「『如来』は煩悩に汚れた衆生たちの内部に自分と同じ如来を見て、煩悩の汚れを洗い清めて、その如来の輝きを現そうという思いで法を説くのである」と。この経典のうたう「一切衆生悉有仏性」は大乗思想の究極といわれるようです。釈迦の悟りの世界を衆生の未来に見ることができるということでしょう。
 如来の心はこれでいいとして、衆生が『如来』のもとに集まるのはなぜでしょう。それは衆生の心の内には「煩悩を払おうとする仏の知恵(菩提心でしょうか)がある」からということのようです。魂には煩悩は多いが消せるものである。そして魂の仏性は常住不滅であると。それゆえ悪人でも成仏できる。そして悪人のままで仏法を説き、人を救うこともできると考えられます。政財官の権力亡者たちも人を救います。「悪に強きは善にも」といいます。
 それでは「仏の知恵・菩提心」何によって発露するのでしょうか。おそらく悪人の魂の中では煩悩と菩提心が戦っているでしょうが、煩悩のほうが圧倒的な力を持っているでしょう。ここで「常放光明如来」が登場します。この如来はまだ菩薩(修行者)であったときに「母の胎内に入るやいなや、、、身体から光り発し、、、光明を持って」世界を覆ったといいます。つまり経験を積んで仏の知恵(すなわち仏心)が輝きだしたということでしょう。「母の胎内に入る」とは、それまで遺伝子情報に過ぎなかった仏心が胎児となって動き始めたことを意味すると考えます。仏性は内部にあるのですから、外部から入るのではのではないのです。それまでは、存在していても光を発していなかったということでしょう。
 このように「涅槃経」では仏性は万人に平等にあるものと考えられているようです。経験を積めば誰でも菩提心が強くなり、修行を積んで仏になれるはずです。しかし現実には、それほど寛容でいられないのが人間というものですから、仏法を誹謗するものは欲望の固まりであるとか、仏縁の無いものには仏性は無いとかいう仏教者も少なくないようです。
 また菩提心は仏法と出会うことによって発芽すると考えている仏教者が多いようです。如来蔵思想を仏教というのに疑問を呈する仏教者もいるようです。現実にとらわれた魂の持ち主といえそうです。
 仏教では「菩薩の五十二位」といって菩薩に修行段階に応じて52の位が設定されています。普通に考えれば修行経験を積み重ねれば誰でも位を上げて終には仏になるはずですが、いつの頃からか、中国時代からかもしれませんが、すべての大乗の菩薩たちは、すべての衆生が救われるまで仏にならないというようになったようです。成仏するのは小乗の考え方ということでしょう。「華厳経」における主役、文殊菩薩と普賢菩薩だけは如来にならないという考え方もあるようですが、菩薩の位が低いものの考えといえそうです
  無量寿経 阿弥陀経
 無量寿仏(阿弥陀如来)という無限の寿命と無限の光りを持つこの「仏」は、釈迦(久遠仏であるとしても)よりも偉いという感じです。一言でもこの仏の名を口にし、あるい思うだけで極楽へ行かしてくれるというのですからものすごい力です。称名念仏は釈迦如来(久遠仏)の世界では仏の世界への入り口に過ぎないのですから威力が違います。もはや人の心が作ったものではなく、方便ではない厳然とした実在という感じです。仏教の大衆化の極致と言えます。しかし、安直にゆける天国には長く置いてもらえないのではという気がしないでもありません。安物は長持ちしないとしたものです。
 「法華経」では明確でなかった仏国土を「極楽浄土」という天国に描いているようです。さすがに酒池肉林とは言いませんが、仏音の響き渡る衣食住自由な世界のようです。