霊魂から人間へ | ||
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科学的唯物論の発達と人間主義の台頭は、当然といえば当然ですが、歩みをともにしてきました。未だに多くの宗教が生きているとはいえ、現代は人間の時代といっていいでしょう。 人間が『神』から離れて人間自身について考え始めたのは腐敗したキリスト教世界においてでした。イタリアのルネッサンス、大航海時代へと市民階級の台頭、ルターの宗教革命によって引き金を引かれた宗教戦争など聖職者や王侯貴族の権威が地に落ちた時代を背景に、人間主義が芽生えたのでしょう。「リヴァイアサン」(国家論)を著わしたトマス・ホッブスはすべての人間は生まれながらの「自由で平等な自己保存の権利」が与えられていると考えたようです。アダムとイブの楽園に生命権と自由権(自然権)が存在したという解釈です。唯物論者とも見られるように、『神』によるものかは明言していないようですが、権利といっていますから『神』を念頭に置いているのではないでしょうか。唯物論では自然法の権利は発生しないでしょう。 権力や法を、王や教王に『神』から与えられたのではなく、個人に与えられた権利による(理性に基づく)社会契約とした考えが革命的で、経験論のジョン・ロック、自然論のジャン=ジャック・ルソーなどに発展的に継承され、現代の人権思想、自由民権思想の元となったようです。 「自己保存」とは個人的欲望に他なりませんから、『神』は個人的欲望の自由を認めたことにもなるでしょう。社会契約は「理性」に基づくもののようですが、この理性は精神的なものではなく、自己保存本能をいかに達成するかという欲望の論理のようです。『神』の名を使っていても、もはやここには精神主義宗教的『神』の存在意味はないといっていいでしょう。しかし『神』を保証人に仕立てているのですから新しい唯一絶対神思想といえるかもしれません。 ルターは聖霊の降臨に恵まれることなく「人間性の深淵(おそらく憎悪や欲望、死の恐怖などでいっぱいの自分自身)」を見せられたといいます。 ジョン・ロックは「無数の諸霊、悪霊」(悪しき心ということか、あるいはキリスト教世界でも一般にはアニミズムが生きていたのでしょう、特に島国イギリスには)の存在を自己のみならず人間のすべての内に見ていたようです。教会や神学者はそれについては語らず(無知だからでしょう)「神霊」についてのみ語る。しかし「神霊」を見たという人はごく少数に過ぎないと「聖霊」の存在に疑問を呈したようです。(サイト「神秘体験」参照) この時代は近世と呼ばれます。キリスト教世界に、イタリアルネッサンスを先駆けとして新しい人間像、人間観が出現した時代といえるかもしれません。それまでは原罪を背負った迷える魂でしかなかった人間が、本当は自由な魂だったという、『神』などの超越的存在から独立した個人の意識が生まれたといえるでしょう。ジョン・ロックは人間の「心」にある観念や価値観の前提となる本源的基準について、それまでの『神』の啓示とかイデアという超越的存在を否定し、「感覚」と「内省」の経験によるものだという経験主義を主張たようです。彼は「感覚」と「内省」によって「一なるもの」の存在を自分は認識したが、それを仮に『神』と呼ぼうということのようです。彼はまた人間の行動原理(つまり自由意志)を幸福への欲望と考えていたようです。人間の本質を「精神」ではなく「欲望」としてとらえる考え方といえるでしょう。「心は本来白紙」であるといって生得観念を否定するなど、非常に唯物的な思想家だったようです。 一九世紀には自由民権運動として急速に発達した人間主義ですが、二〇世紀にいたって唯物科学の巨大化によっ『神』が衰退し、その保証の元にあった「自由意志」は混乱し、危機に陥っているといっていいでしょう。「魂」のないところに「自由意志もないのです。しかし科学技術がもたらした物質的豊かさに対する人間の「欲望」はますます肥大しています。 |
ホップスは人類の自然状態を「万人の万人に対する闘争」という視点から、人間は自己保存のために個人の権力を、一人の強力な権力と保護を契約し、全的に放棄し委ねるべきだと考えたようです。しかしこの視点はほとんどの哺乳類において共通でしょう。 ロックやルソーは自然状態を「牧歌的・平和的状態」と考えたようです。ホッブスの理性まで放棄する考え方に反対し、原始社会にも個人の私有は存在したとして、「生命」「健康」「自由」「財産」という私権は、放棄するのではなく、国家に信託するのであるといいます。個人は理性によって国家を監視しなければならないということでしょう。 民主主義は人間の権利(right=正義が本義)を元にしていますが、自然権として人権は『神』によって保証されているということでしょう。唯物論的世界には人権の保証人はいないので、中国やロシアのような旧共産圏には人権思想は存在しないといえます。 もちろん多神教世界にも人権思想は存在しませんが、神の国となった日本人は天皇から人権を与えられ、「天賦人権」と叫ぶようになりました。「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」と福沢諭吉のいう天は儒教の天でしょうが、天は創造者ではないのですから、皮肉かもしれません。 |
意識・心 | ||
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欲望の論理が表に立つとともに「心」そのものが問題になってくるのは必然でしょう。特に良心が問題になります。中世キリスト教世界では良心と「意識」consciousnessはほとんど同じ意味だったといいます。そこで欲望に対抗する意味もあってか「意識」が問題となってきたのでしょう。 意識や心の構造を問題にし始めたのはデカルトと考えられているようです。それは有名な「我思う、故に我あり」という自己意識のこというようです。これは意識内容といえるでしょう。カントの主題である認識cognition能力などに対して「意識」の能力という言い方適正ではないように思われます。哲学では、自己の心身に起こっていることを認知している心の状態、作用を意識と呼んでいるようです。哲学の対象とする「意識」は認識力や、意識内容のあり方ようです。 つまり「意識」とは「心」の認識能力ということではないでしょうか。それは「意識者」とは「心」であるといっているようなものではないでしょうか。 心理学でいう感覚・感情・観念は意識内容といえるでしょう。精神分析は意識の状態に着目しているといえるでしょう。 科学的には意識や心は脳の働きと考えられ、脳が覚醒している状態を意識といっているようです。しかし、人工頭脳が人と同じ反応するからといって「意識」を持つと見なすのは蛮行というものでしょう。意識はたとえ外的な感覚・視覚(器官)の所与であっても常に内的感覚・視覚(実念とでもいいましょうか)に向かってあるといえるでしょう。人工頭脳には検索機能functionがあり頭脳内部の記憶を探り出すことは出来ますが、内的な感覚・知覚は存在しないし、それを見る装置もありませんから、意識の機構mechanismにさえなっていないといえるのではないでしょうか。 脳は意識のメカニズムとして働きます。唯物論者は「見るもの」も物質エネルギーの形成する「意識機能」とみなします。しかしそれは意識の機構・メカニズムとしての機能に過ぎないのではないでしょうか。むしろ「意識自体」は物質的エネルギーとはまったく別物でしょう。 脳は「意識」のメカニズムですから「意識自体(意識者)」を見ることは出来ません。 見ているのに見えない、この「意識」ほど不可思議なものはありません。その不可思議を思うとき、けっきょく仏教思想のように「心」こそ実在であり、意識は心の働きではないだろうかという思いが強くなります。意識は心の目というべきかもしれません。脳はその手足とでもいうべきものではないでしょうか。つまり「意識」とは心の認識力と脳の共同作業という見方が出来るのではないでしょうか。 さらに踏み込んで「心のみ存在する」と仮定することから、世界を考えることに魅力を感じます。肉体も物質も心の中の観念なのです。といっても、「独我論」のように、この現実世界のすべてを、私の心が展開しているとはとうてい考えられません。大自然にあふれる無数の生物、数え切れないほどいる昆虫、鳥や魚たち、無数の植物、その千変万化の生態、この豊かさは独我論を粉砕するものです。この人間世界の多様性、越えられない壁、限界の多さは、私を超えた存在を感じさせるものです。独我論者は現実世界に無知で、無感覚と言うほかありません。心に肉体や物質世界、この現実世界を放り込む何かがあるのではないでしょうか。その何かにとって一個の魂だけが相手ということもあり得ないでしょう。多くの「心」がこの世界を共有しているのです。独我論とは「意識」を個人のワクに閉じ込めた小さな世界です。なぜ彼は独我論に陥ったのか、自分だけの世界、なぜそこに彼は住むようになったのか、それは彼の心の問題でしょう。 |
「意識」の定義として平凡社の世界大百科事典に西周がアメリカ人ヘーブンの「Mental Hpilosophy」を翻訳した「心理学」の「みずからの諸現象を認知している心の状態ないし作用」という言葉を引用しています。 現代では心を成長するものとして見る「心の発達」という観念が重要になっているようです。発達とは実に生命的です。「生命」(生物ではない)もまた「心」と同じように不可思議です。人類の霊魂思想の歴史が求めてきたのは、まさしくこの「心・生命」ではなかったでしょうか。 独我論は自我とその意志だけが実在し、一切世界はその意識の中に存在するに過ぎないといいます。仏教思想も独我論的ですが、「識」や「ダルマ」という、他者と共有する世界を認めています。 |