『意識』と『自己』   


 今日宗教に替わって優位に立っている科学的、唯物論的な思考形式はグローバル化の現代において最盛期を迎えつつあるといえます。歴史が我々に見せてきた主役は『霊魂(精神))』と『物質(現実世界)』ですが、未来の主役は精神でも物質でもなく、『生命』であり、「意識と心」だといっていいでしょう。これは『世界の創造』や『永遠』について必ずしも否定するのではなく、未知なるものの啓示を棚上げにし、まず人間を知ろうということ、そのために身近な『私』の体験から始めようということです。
 人間の多様性は知・情・意など「心」の働きにすべての原因があるのですから、人間の『意識』(心・意識)を知ることだけが世界を解決する道なのです。心理学や精神分析学を嫌う人は少なくありませんが、たとえ現在の心理学や精神分析学に欠陥があるとしても、人間の苦しみに対して誠意があり、人間を知ろうと思う人なら、これを無視することはできないでしょう。


 単なる「意識」は「心」を見る目ですが、「心・魂」の目だともいえます。広い意味での『意識』は考えたり悩んだりする「心」とその「意識・無意識」のすべてについていわれます。つまり『意識』≒『魂』です。人間の魂というものを、宗教的なタガを外して「自分を意識するもの」として『私』という記述で表現することもあります『意識』の内容が「自己」であり、「自己」の本質が真実の自己、すなわち『自己』ということです。
 我々が何よりも確信できることは『意識』によって初めて「世界」は存在するということです。意識の無いところに「世界」は存在しません。『意識』の内容、内的外的「世界」が唯物的か唯心的かはその後の問題です。『意識』の特徴と現実の関係を瞥見してみます。自己感覚の不確かな、つまり物質的にも精神的にも自己感覚が不確かな人々は宗教的不安にとらわれているでしょう。物質感覚の強いものたちは目に見える現実しか信じないでしょう。科学者たちは『私』を物質の状態が進化し、脳が複雑で神秘な段階に達したときの特性に過ぎないと考えています。心というものの不思議さに強い感覚を持っている人々には、『私』は物質とは別のものです。極端な考え方でいえば仏教の「唯識」のように、物質性そのものを否定します。しかし、物心両面に渡り多様で複雑な世界をトータルに見ることができるなら、世界観としての心身一序というような考え方に至るでしょう。物と心を一体にとらえるとき、物質観は違ったものになります。物質現象には、すべてその実体は存在しないのです。しかし、物質を存在すると思わせるものはあるわけです。その「思わせるもの」は電子顕微鏡実験でも見ることのできないものですから、実体を持たない心的なものでしょう。それを観測的にとらえようとすると、観測の仕方によって粒子だと見せたり波動だと見せたりするわけです。「量子力学的世界」が示すのはそういうことだといえます。それ故、科学的理論に対する接し方は、ある時間のある局面においての、ある対象に対する一つの解釈という「言語空間」、いわば言語ゲームとしてみることでしょう。すべての言語空間はゲームなのです。「犬が犬小屋の中にいる」といっても現実をそのまま写し取っているとはいえません。どんな犬なのか、寝ているのか座っているのかも分かりませんから、現実の表層を写し取って見せているだけです。
 未来の『意識』として、よく話題にされるのが「トランスパーソナル意識」です。超越的体験や超常現象は古来人類のもっとも好きな話題です。宗教を信じなくても肉体を離れた霊魂や死後の世界、あるいは神のような超越的存在を信じている(半信半疑で恐れているだけかもしれませんが)人は非常に多いようです。それは古来思想家たちの中心的課題であったのです。この問題は言い換えると意識と物質の関係ということになるでしょう。この問題への唯物論側の解答を端的に言えば「見えないものは無いものである」ということでしょう。しかしこの論理は量子力学によって混沌の世界に落とされました。現代では「PK(サイコキネシス・念力)現象」を科学的?に論証するのもたやすいことです。しかしその真実のほどを計る科学的手段はありません。けっきょくこれも『意識』の問題に帰するのです。「世界とは『意識』である」と言うこともできるでしょう。
       トランスパーソナル『意識』

 『意識』の構造・システムを仏教の唯識論は八識、九識あるいは十識という考え方で見ていますが。その影響もあり、歴史的、発達史的必然的によって、現代西洋思想は哲学・物理学・心理学など、百花繚乱すべてに渡って(量子論と複雑系のパラダイム)増殖させ、それぞれのやり方で展開させています。
 『意識』の問題で特に重要なのは、世界現象の元となる力、仏教で言う阿頼耶識(あらやしき)です。それを物理学的に、現象の明在系と対処して暗在系の全体力(wholeness)と定義するボームのような考え方があります。この考え方の中心的概念ホロムーブメントの元になったホログラム現象は電磁波が単なる粒子・波ではなく、粒子・波動は多方向性を持った広がりであるということ、それ以上に神秘なものであることを示していると思われます。阿頼耶識や『全体力』とはユング心理学でいう『元型』のようなものでしょう。

 以上のような、精神的あるいは物理的な、『意識』の構造やシステムに対する考え方は、それはそれできわめておもしろいのですが、ここでの問題は『永遠』に対する究極の、全体的把握は物質的か精神的かということです。しかし、世界は精神と物質だけではなく、もっとも大切なのが生命です。生命を物質視することも精神の下位におくことも生命軽視に他ならないでしょう。全体的把握、当然それはそれらすべての総体から生まれるものでしょう。そして、それは『宇宙』を『永遠』の『命』の展開と見ること、生命体的宇宙論に尽きるのではないでしょうか。この世界の本質が精神であっても物質であっても、あるいは「意識」であっても、差別が生じ、否定されるべきものとされる「生きること」は無意味になってしまうのです。「神」が否定されるのは創造者と非創造物という差別があるからです。「仏教」が否定されるのは「諸法」、すなわち「生」を否定するからです。差別も無差別もすべてを包括するのでなければ神の絶対者・全体者、すなわち『永遠』とはいえません『命』はすべてを包括するものです。『命』が生にあるか死にあるかだけです。「命の実存」であってこそ生き甲斐もあろうというものです。「命の実存」とは肉体の成長と老化、生病老死のすべてであり、『意識』の発達進化の過程です。『永遠』の『意識』はもとより『自己』について無知・無明であり、その『自我』である人間によって『自己』を知り、明知・悟りに至るのではないでしょうか。 


自己愛

 我々の時代になって人類は、もはや宗教的世界観や科学的世界観に依存することはできなくなったと言っていいでしょう。パラダイムの変換の叫びはそこから生まれたのです。少なくとも、もっとも発達段階の高い魂はそうした必要性に迫られているといえます。
 現代は宗教が裏付けしてきた倫理・道徳が、宗教的欺瞞のベールをはがされて、崩壊しつつある時代だといえます。いまや倫理・道徳の根本は自己保存の本能によると考えられていると言っていいでしょう。大きな意味での『自己愛』が根本にあるのです。それ故に自己を否定されたもの、自己否定の念にとらわれたものには倫理・道徳は意味のないものです。矮小化した自己愛が自己破壊を、その裏返しの他者破壊を企てることになります。財産にしろ、才能にしろ、人気にしろ、「持てるもの」には平和は大切ですが、「持たざるもの」には現状破壊が好ましいのです。すべての生きることの根源であるこの『自己愛』こそ、これからの人類が追求しなければならないことでしょう。
 「自己愛」のあり方を決定するのは「何を持つか」ということです。全世界を支配したい、所有したいというのが人間すべての、『自己愛』の根源的な欲望でしょう。しかし、言葉でも力でもそれは不可能です。もちろん財産や大衆人気など論外のことです。「知」のみがそれを可能にします。そのために人類は考える動物として生まれたともいえるでしょう。その所有の方法、思考形式が宗教的であれ科学的であれ、あらゆる思想はそのための試みだということができます。個々の「精神」は世界所有の状態を表すと言っていいでしょう。

 世界は多種多様な人間で満ちあふれています。多様な人間とは多様な段階の心の持ち主ということです。現段階では、そのほとんどは愚かしく貪欲であり、瞋恚に満ちています。犯罪も戦争もそこから生まれています。いったいなぜ人間の心はこのように混沌として在るのでしょうか。世界を所有し損なって迷走しているからです。悪を憎み糾弾するだけでは何の解決にもなりません。世界の矛盾を解決するには人間の心を知るしかありません。「原罪と贖罪」、「迷妄と超越」という宗教的カテゴリー、邪悪と対抗する聖なるもの、あるいは物質を超越する精神という思考形式は人類の発展段階としてはもう消滅寸前にあるといっていいでしょう。「知」は原罪などではなく人間の役割なのです。それが人間であることの宿命なのです。しかし、そして、それは、宗教家たちが常に語ってきたように、すべての人間の苦しみの原因なのですが、そこにこそ『永遠』の生きる意味があるといえるでしょう。苦あってこそ楽があり、楽あってこそ苦の意味もあり、生あってこそ死の意味があり、死あってこそ生の意味があるということです。そして、それ故に、生の後に死があるように、死の後に生があるのです。それが『永遠』の『命』の意味であり、『運命』の意味でもあるでしょう。生命の進化や人類の発達ということも、それ故に意味があるのだと思います。