はじめに | コメント1 | ||
![]() |
私は太平洋戦争の始まった昭和16年生まれです。そして敗戦によって、日本的伝統・文化に包まれていた「私」すなわち「魂」を失いました。戦後教育は「私」とは「人間」であると教えてくれました。「人間」とはもっとも進化した動物ということでした。そこには「魂」はありませんでした。「魂」が担っていた倫理、愛や正義は発達した大脳の知的能力が選択する社会的判断、相対的、功利的な判断であるということになりました。 |
人間という言葉がいつ頃から使われ始めたかは分かりませんが、原義は「広辞苑」に出ている意味、人の住む場所ということのようです。 漢字の人は人間の形です。中国では文字は霊的なものの現象、象徴のように考えられていたでしょう。 「日本語のヒトのヒは霊であり、トは所、物のことか?」とあります。様々な霊が依ったり憑いたりする場所や物ということでしょう。他の動植物は人間に土産(身を提供する)をもってこの世に来る、それ自体霊的存在なのかもしれません。(梅原猛、日本人の「あの世」観)つまり人間とはヒト的霊魂の他者との関係におけるあり方をいうのでしょう。 人間学-authropologyは、ギリシャ語-anthroposu-に由来するということです。古代ギリシャも霊的時代のことですから、霊的存在としての人のことでしょう。 人間科学というときは-human science-と表現します。おそらくその違いを認識しているからでしょう。しかし日本人には人と人間の違いはほとんど意識されないようです。 人間学はヒト学とか人性学というほうが正しい翻訳だったのでしょうが、戦後日本の人間は霊性を失い、社会的動物に過ぎないのですから、適合しているといえるのかもしれません。 よく人間不在といいますが、それはヒューマニズムにおける、倫理的理性としての人間の喪失を意味します。ヒューマニズムとは、人間という動物の本性には、善や真理を求める理性が備わっている、という一種の信仰でした。二つの世界大戦は、理性は善や真理を求める本質でないということを人類に教えたのです。大量破壊兵器を作るのも理性なら、戦争の策略を練るのも理性なのです。それなら人間の本質とは何か?が問題になります。 |
|
![]() |
「魂」という言葉について 現代の日本人は魂という言葉をおもに心の働きをを強調するときに使いますが、本来は非常に意味の広いもので、洋の東西によっても、民族によっても意味あいが違うようです。 古代日本語の「タマシヒ」は生命原理です。タマとは尊いということで、「シヒ」はシビであり気息のことです。「ヒ」は神霊を指す言葉だったようです。太陽を神と見たことに由来するのかもしれません。古神道には火水と書いてカミと読み、水火と書いて神の息と読む著述もあるようです。 火と水を神と見る考え方は人類共通のものでししょう。日本の神事において火と水は最も重要な要素です。 古代、すべての人類において、魂とは生命の源・本質という意味あいだったようです。その頃は心と命の分離も定かではなかったのでしょう。それは人間は神霊と心魂の共生体のように考えられたからでしょう。しかし精神主義的宗教時代から精神原理的色合いを強めていきました。神霊的な「霊」と心的な「魂」をあわせて、漢字の表現としては「霊魂」が使われるようになったようです。 日本人は「魂」と区別しないようです「霊魂」という言葉は、「魂」に理性的精神性、そして肉体、物質など世界現象を司る原理的実在という意味などを加味して使われるのが普通でしょう。 魂観の歴史をたどる前に、多様な意味を持つ「魂」という言葉に対して、私なりの定義をしておく必要があるでしょう。 私の「魂」の定義としての基本は「意識する主体」です。「私」を私と言っている主体です。また、「精神」は「心」の一部と考えます。「精神」という漢語の原義は「天地自然に働く気の霊妙精緻な神的力」ということで、後に人間の心におけるそれとされるようになったようです。 |
||
![]() |
|||
![]() |