神秘体験
 神秘思想
 唯物的世界観の崩壊を目の前に勃興したニューサイエンスはニューエイジ思想の一環と考えられているようで、神秘主義と結びつくことが多かったようです。神秘主義(しんぴしゅぎ、英: mysticism)は『一なるもの』を自己の内面で直接的に体験しようとすると立場であるといわれます。神秘主義は神秘体験を求める思想といえるでしょう。オカルト主義(神秘学) は「超自然的な力」 をとらえる技術や知識を指すようです。日本の密教のように両者は重なっていることが多いようです。密教・秘教(英: esotericism, 仏: ésotérisme)という言葉はそうした技術や知識が、秘密に伝承される姿において使われるのでしょう。

 神秘的思想は神秘主義だけではありません。古代の唯物論的は、その時代においては結構神秘的だったのではないでしょうか。彼らの思想は神秘体験を求めるものではありませんでした。現代においても科学的神秘思想といえるものがあります。シェルドレイクの形態形成場理論ライアル・ワトソンの
コンティンジェント・システムなどニューエイジ・サイエンスの思想がその典型といえるでしょう。疑似科学という言葉がありますが、現代科学の理論も一般に信じられているほど確かな根拠を持っているわけではなく、本質は神秘的なものなのです。相対性理論量子論も全く神秘的というほかありません。
 二〇世紀最大の神秘思想家といわれることもあるらしいグルジェフの思想は唯物的といわれるようです。人間心理を機械的に見て、人間には自由意志がないといったというのです。体操(ムーブメント)や労働など(ワーク)への集中と「自己想起」によって目覚める(高次の感情と知性が働き始める)ことができるというのが彼の思想の核心といえるかもしれません。ムーブメントもワークも、機械の部品のように動かされていて自己統一のない自分の心と身体を観察することのようです。東洋の神秘主義の瞑想と違いきわめて意識的な修行法といえます。
 グルジェフに神秘体験があったのかどうかはわかりませんが、「一なるもの」については「絶対なるもの」という認識のようです。世界は「絶対」から流出する「創造の光」によって作られるというのですからカバラ思想に似ています。唯物的というより唯一絶対神教の系列といえるでしょう。心理を機械的に見るところは、おそらくフロイト心理学を念頭に置いていたのでしょう。フロイトにもいえることですが、非精神的で唯物論に近いとはいえ、デカルト以来の機械論的世界観の範疇の内にあるといえるでしょう。グルジェフは「自己の本質」という言葉をよく使ったようです。自己の本質とはエスあるいはリビドーようなものかもしれません。欲望に忠実だったらしいグルジェフのことですから、そういう意味での神秘体験はあったのかもしれません。
形態形成場とは、生物の複雑な形態、例えば人間発達などがDNAなど化学反応だけでは説明できないと考え、時空を超えて働く目に見えない、アリストテレスのいう形相因のようなものが働いているとしたのである。


英語のコンティンジェント(contingent)
には、「不確かだが起こりうる」という意味合いがあるようです。名詞形の コンティンジェンシーは「偶然」と訳されますが、日本語の「偶然」は単に「予期されぬ出来事が起こること」というだけの意味のようです。
コンティンジェンシーとは世界の出来事の裏には認識不可能なシステムが存在するということでしょう。すべての出来事の裏に神の手を見る唯一絶対神教的考えかもしれません。すべてを霊的要素(神々)の関係性で見る一元多神教には物事に対して偶発的意識が強く、システム的観点は欠如しているようです。
 神秘体験
 神秘主義とは神秘体験を目指すことですから、神秘体験ついて語らなければならないでしょう。コンピューターと違って人間には内的体験というものがあります。神秘主義の神秘体験は特殊な内的体験ですが、UFOやエイリアンとの遭遇という神秘体験もあり、それを事実と思う人もいるようです。
 宗教(一神教、多神教)は神秘体験者を宗祖とするといっていいでしょう。信者にも神秘体験者を多く輩出しているようです。神秘体験から新宗教の開祖になった人物も古代から現代に至るまで少なくないようです。「霊界物語」で有名な大本教の出口王仁三郎も神秘体験(喧嘩で半死半生の目に遭ってからといわれます)から宗教者となったようです。獄中体験によって新宗教の教祖になった例は少なくないようです。
 「唯識」のような絶対的唯心論ともいえる思想を持つ仏教の開祖釈迦は「怪奇乱神を語らず」といっています。彼は苦行中の神秘体験を妄想のようなものと考えたのかもしれません。それ故に仏教思想では神秘体験を実体のないもの、心的な幻想のようなものであるというのでしょう。人生の苦から自由になるには何ものも求めず、何ものにも執着しないことだというのが彼の悟りのようです。悟りさえ求めないということでしょう。悟りを求めて苦行した結果が悟りを求めないということです。精神の進化、思想の発達とは何かということを考えさせられます。

 神秘体験の内容は様々です。光り輝く光明のような超越的充足感や、神仏の姿を見たもの、あるいはその言葉を聞いたもの、体内に神が降りたかのように感じたもの、あるいは自分の魂が神のもとに引き寄せられたかのように感じたものもいたでしょう。
 神秘体験は超越的なものばかりではありません。いわゆる臨死体験体外離脱なども神秘体験といえるでしょう。殺人者などが悪霊にとらわれた、悪魔に取り憑かれたと感じるのもそれです。小説家埴谷雄高は獄中の神秘体験を元にして「死霊」を著したといわれます。世の中にはエイリアンに捕まった体験を語る人もいます。単なる虚言もありますが、本当にそれを信じている人もいるようです。「超能力現象」「超常現象」を見るのも神秘体験といえるでしょう。

 こうして神秘体験の多種多様さを見渡すとき、その体験内容の真実性は失われ、実体のない幻想と結論づけるべきかとも思われます。しかし、幻想を見るのには見るだけの理由があるはずです。背後霊やUFOなどは視覚的な錯覚でしょうが、錯覚をもたらす何らかの内的原因があるはずです。その人の心のありようが大きく影響していると考えられます。
 当人にしか見えない内的体験も多くの事例を比較検討することによって、その意図するところ、理由、原因が見えて来るでしょう。宗教の歴史を振り返るとき、宗教的神秘体験の根底には真理を求める苦悩があります。世界は真理を要求する多くの問題、生病老死、善悪、肉体と精神、感情と理性、他者と自己の問題が解決を求めて横たわっているのです。宗教的ではない神秘体験にも同じことがいえるでしょう。
 神秘体験は現代科学的には変成意識ともいわれるようです。様々な事例が示すのは神秘体験をもたらすのは精神や肉体の極限状態ということでしょう。薬物による神秘体験にも同じことがいえるでしょう。科学的発見も試行錯誤の極限状態で生まれたといえます。葛藤の極限状態の中で意識(内容)が通常から異常へと変成するようです。単なる異常ではなく超常といえる変性意識のとき、日常意識から断絶し、解放された心の全体運動の結果としてさらに深いところの心が現れるかのようです。
 変性意識状態とは夢を見ている状態とよく似ているようです。しかし変性意識は、修道者たちにあるように、意識の働きが止まることによって心のもっと深いところから現れるもののようにも思われます。意識が働いていないときにも働いている心の働き、運動、そこに新しい、進化した、成長した心の状態が形成されたのではないでしょうか。
 意識レベルの低下といわれる状態があります。意識の外観的な機能障害のことをいっているようです。意識レベルの低下は身体的肉体的障害から来るものだけではなく、心の葛藤がもたらす精神的障害もあるようです。変性意識をもたらすこともあるでしょう。意識レベルの変化は大なり小なり、生命力(気)の変化のようにして、通常健全とみられる人々にもあるとみるべきでしょうが、何らかの内的外的原因によって、それが突出した変化を見せるのではないかと思われます。
 変性意識と精神障害、それは紙一重の違いかもしれません。両者の違いをもたらす原因は心の葛藤の内容にもあるようです。虚栄心、自尊心のような外的価値観による葛藤は精神障害に至る可能性が大きいように思われます。精神的価値観を求める葛藤は有意義な変性意識をもたらすように思われます。その人の魂のありようが現れるのでしょう。催眠や瞑想など心理療法がが精神異常をもたらすこともあるようです。外的意識のつっかえ棒がなくなったからではないでしょうか。
無神論者も神秘体験を持ちます
健全な懐疑主義からのアプローチということです。薬物体験によって『神』や「真理」を体験したということです。『神』・「真理」到達というようなものにも感覚性質・クオリア(感覚そのもの)があると考えているようです。
多くの体験者を例にして人間精神を量子論モデルでカテゴライズしたりしています。





 フロイトの夢
フロイトには父母との関係における夢によって精神分析の理論を組み立てたようです。理知的で現実的な夢しか見ない人だったようです。催眠法を覚える前は夢を意識すること自体少なかったのではないかと思われます。

 ユングの夢
幼児期から神秘的な夢や出来事に覆われた人生だったようです。UFOを見たという体験もあるそうです。


 神秘体験とは「心」が世界に対するときに現れる「自我」の問題ではないでしょうか。自我とは他者に対する欲望といわれます。我々は、あらゆる神秘体験に世界支配の欲望を見て取ることが出来ます。思想もまた世界支配の欲望によるものだといえるでしょう。つまり「心」の本質とは「欲望」なのではないでしょうか。