中国の塔〜木造を中心に
中国の塔はまずは木造で発達してきたようですが、木塔として現在のこされているのは10世紀から12世紀頃の応県の仏宮寺釈迦塔のみです。中国での木造以外の塔の主な材料としては、西晋の時代(265〜316)から塔に使われはじめた「せん」(土へん+專 という一文字の漢字、レンガやタイルのような焼き物)が多くなっていきます。これで作られた「せん塔」は耐久性・耐火性・耐候性に優れた塔になります。材料が変わり、構造としての必然性はないのですが、デザインとしては木造の塔の木組みを再現しているものが多いようです。ここでは日本への伝来を考えるため木塔を中心に考えます。
北魏(5世紀〜6世紀頃)には沢山の塔が造営されたそうです。中でも都の洛陽の永寧寺の九層塔は、高さが80mを超していたそうですが、残念ながらこの頃の木塔は今は残っていません。隋(581〜618)の文帝は、80以上の地区に三回にわたって塔を建立したそうですが、木造といわれるこれらの塔は一基も発見されていないそうです。この塔は首都で標準の形式を定めて、同時に着工されたそうです。大量生産のためには標準化が必要だったのでしょう。これらの塔に心柱があったのかどうかはわかりませんでした。
中国の仏教は隋とその後の唐の時代(589〜907)に最も発展しました。中国で、塔の平面形が四角なのはこの隋・唐の時代までで、以後は八角形・六角形になっていきます。先ほどの仏宮寺釈迦塔も平面形は八角形です。
朝鮮半島の塔〜木造を中心に
一方、朝鮮半島に仏教が伝わったのは4世紀後半から五世紀半ばにかけてです。中国で現存する塔は「せん塔」が主であるのに対して、朝鮮半島では石塔が主になっています。良い木材が手に入りにくいということが影響しているようです。 木塔に絞って考えると、7世紀なかばに建立された全高67.5mに及ぶ新羅の皇龍寺九重の木塔が記録で確認できる最古の物だそうです。このころの百済や新羅の木塔は現存していませんが、それらの跡は日本の塔址とのちがいは少ないそうです。これらの塔は、日本の塔に大きく影響を与えたのでしょう。
聖なる柱
韓国では、昔は塔の心柱のことを刹柱と呼んだそうです。この刹柱という言葉は、韓国の寺の山門を入ったところに聖域を示すため立つ「幢竿」(とうかん)という単独の柱の別名でもあります。このように聖なる意味をこめて柱を立てることは、区域を区切るために韓国やアルタイタタール・ブリヤートなどの北方民族の間で行われていたことだそうです。先年 青森の三内丸山遺跡で発掘・想定復元された直径1m長さ16.5mに達する6本の栗の柱を持つ大形掘立柱構造物も、このような聖なる意味をこめて解釈する説もあるようです。この遺跡からは黒曜石などの北方との交流を裏付けるものも出土しています。日本の塔を特徴付ける「心柱(刹柱)」は、北方民族にはじまるものかもしれません。
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