日本の塔の特徴〜独自の技術発展3

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日本の塔の構造の特徴〜軒の支え方の変遷

初期の塔〜意匠と構造の一致/垂木による支持

 法隆寺五重塔(7世紀)や薬師寺東塔(8世紀)、醍醐寺五重塔(10世紀)などの初期の塔では実際に力を受ける構造部材が軒下に見えています。この頃の塔は軒の先端部分が薄く、すっきりした印象をうけますが、組み物の意匠の自由度は少なかっただろうと思います。6世紀の終わりから8世紀半ばまで、中国では隋と唐の仏教が全盛期で、日本との交流も多かった時期です。10世紀のはじめに唐が滅亡し、朝鮮半島でも新羅にかわって高麗が建国すると、日本への大陸からの文化的な影響は弱まってきていわゆる国風文化がおこってきます。この少し後に起こる塔の構造の変化もこの影響があったのではないかと思います。

鎌倉時代以降の塔〜意匠と構造の分離/桔木の採用

 時代が下がって、鎌倉時代になると軒の支え方に変化が起きてきます。今まで軒を直接支えてきた、地垂木、飛檐垂木を屋根から離してしまい、そこにできた空間に桔木(はねぎ)という太い部材を通し重さを支え、屋根自体は野垂木という部材で支えます。桔木も野垂木も外からは見えない部材になります。
 この構造には、屋根の勾配を増やし水はけを良くする狙いと あまり太い部材を見せずに軒が下がらないような耐久性を確保する狙いがあったのだと思います。軒が下がるというのは、伝統的寺院建築の慢性不具合のようで、実際、塔の修理前の調査をすると、例外なく軒の下がりが報告されるそうです。この桔木(はねぎ)というのは、当時の日本の技術者が考案した新構造なのだと思います。図は広島の明王院五重塔(1348年)を例にとっています。
 この新構造をとることによって、軒の下の地垂木、飛檐垂木はほとんど重さを受けないようになり、構造的にはなくても構わない状態になっています。しかし、我々の祖先は決してこれらを取りませんでした。
明王院五重塔全体

広島 明王院五重塔

明王院五重塔軒組図 明王院五重塔 軒組写真
明王院五重塔の
桔木による軒支持
明王院五重塔の軒組

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Last Updated :  12-Jan-2003 by Naoki