「あいもの」と「四十」について
 『難解語彙辞典』(地名・人名編)の「四十物」の項に
塩魚類の総称で、四十種以上の魚介類の生物と乾物の中間の物を取り扱った商売。 今でも魚市場へ行くとこの商売があり、四十物問屋の看板を出している。この商売 は既に鎌倉時代からあり、これを職業とした人たちで四十物の名字を名乗っている人 もいる。
とある。ここで関連付けられるのは、魚介類の種類が四十種以上であったことである。中国では「三」や「九」で多いことを意味することがあるが、この場合も四十種類以上の多くの魚を扱ったということから「四十」という数字が割り当てられたのではないであろうか。
 ところで、「四十物」という文字で文献に出てくることは少ない。多くが「相物」「間物」「あい物」である。唯一探すことができたのは、『妙好人伝』に
越前於銀「御影堂前の四十物屋彦七の妻」
とある記述だけである。地方の民間レベルでは頻繁に使われていた書き方ではあるかもしれないが、古典的な作品にはあまり使われることがなかったようだ。そこで、この『妙好人伝』の記述についてのみ調べてみることにする。
『妙好人伝』の元は『往生伝』であり、阿弥陀仏の信仰に生きて極楽に往生した人々の伝記を集めたものである。そのはじめは中国唐初の迦才の『浄土論』巻下に収める20人の往生人の伝記であるが、のちに独立に往生者の伝記だけを収録するものが現れた。日本では寛和(985〜987)のころ慶滋保胤が『日本往生極楽記』を選して以降、数十部に及ぶ往生伝が著された。江戸時代にはいって天保13年(1842)に仰誓により、弘化4年(1847)に僧純によって書かれたものが『妙好人伝』である。これが刊行されて以来、広く一般化し、特に真宗の信仰心を得た人に限って用いられた。その後もこの種の伝記は多く書かれたが、明治時代以降〈妙好人〉とうたわれたひとは殆ど名もない庶民であった。
この書物のこのような特質から、ある特定の地域の、ある特定の人々の間で「あいもの」を「四十物」と表記していたのではないかと考えられる。
 では、どこの地域で主に使われていたかについて方言の方面から調べてみると、岡山県御津郡・徳島県・対馬南部・新潟県中蒲原郡などが挙げられる。中でもその派生語を見てみると新潟県が多いように思われる。しかし、この面ではこれ以上の調査が困難なため断念せざるを得ない。