日本仏教


 日本人の仏教の受容においても祖霊信仰・まれ人信仰が働いていたということができるでしょう。日本人が受け入れた仏教は主に加持祈祷というシャーマン的手法でした。日本人にとって「仏」は祖霊や神霊と何ら変わらないもの、というよりもっと本質的な祖霊だったのかもしれません。「涅槃」とは「常世」のことでしょう。
 仏教世界を祖霊信仰的な感覚で解釈すると「仏」とは「祖霊」であり、「神霊」でもあるでしょう。「如来」は「祖霊」の本性のようなものととらえられていたでしょう。「涅槃」とは「常世」のことだといえるでしょう。 立山信仰に典型的なように、霊界、地獄や極楽浄土もこの世と隣り合わせにあるとするのが日本的です。そういう精神のもとに仏教は受容されたと考えて良さそうです。
 仏教の思想的概念「縁起」は通俗的に物事の起こる前兆という意味で使われています。「衆生」という概念は、山河大地にも神霊の有情を見る祖霊信仰的感覚には合わないようで日本的仏教ではほとんど使われないようです。

 即身成仏思想(この項はもっぱら中村元選集「日本人の思惟方法」によっています。)

 日本仏教の特徴は即身成仏といわれます。仏教では、輪廻思想のもとに、成仏は長い修行の歴程が必要とすると考えるのが本来でした。しかし、祖霊と直接的につながっている日本人にとって「祖霊」と一体化するのに多くの転生による修行が必要だという考え方には共感を持てなかったでしょう。日本の仏教において輪廻思想の影は薄いといえるでしょう。
 仏教では「心と仏性と衆生は本性真如である」といいます、それを言い換えて「我々は本来悟っていた」、それゆえに「凡夫もその生身のままでまっすぐ仏になり得る」と大乗仏教では解釈し、「直道」というそうです。これなら日本人の祖霊信仰的精神にも受け入れられるものです。なかでも法華教がもっとも強くこの考え方を主張しているということで、日本仏教では法華教が主役となったのです。直道をもっともラディカルに解釈したのが即身成仏だといえるでしょう。即身成仏という言葉を最初に使ったのは日本天台宗開祖、伝教大師最澄ということです。
 最澄や、真言宗開祖弘法大師空海によって始められた即身成仏思想密教的色彩の濃いものだったようです。即身成仏思想は鎌倉時代に現れた日本的仏教の創始者、親鸞と道元によって完成されたといえるでしょう。彼らにおいては修行はもちろん祈りなどのシャーマン的力による涅槃成仏さえ否定するようになりました。日蓮も即身成仏ですが、自分を「法華経弘布の使命を負った上行菩薩の生まれ変わり」といったということで、生まれ変わりや祈祷の力を信じるなど、まだ平安仏教の延長というところがあります。

 親鸞(1173~1263)の現生正定聚(げんしょうしょうじょうじゅ)という思想は、「私が今あるのはすべて先祖様のおかげです」といっているようなものです。親鸞は阿弥陀如来の回向(えこう、仏の功徳を人々にもたらすこと)を高僧達が伝えてきたということ、つまり、回向力は人から人へと伝えられるものと考え、人間の回向力を否定したということです。そして往生極楽とは死後のことではなく、今現在の阿弥陀仏に対する信心にあるといいました。かれは僧侶の仏力(読経の呪力)さえ否定してます。ただ阿弥陀如来の本願力を信じさえすればいいといっているのです。往生即涅槃といって死後のことを思い悩む必要など無いのです。信心即極楽です。親鸞にとって地獄極楽はこの世のことなのでしょう。彼が阿弥陀如来の信心に達したのは法然によってだとしていますが、聖徳太子(観音菩薩の化身)からお告げを受けたというのですから、霊界とは夢の世界とつながっていると思っていたのかもしれません。しかし、霊力は信じていないようですから、シャーマニズムは否定しているというべきでしょう。
 道元(1200~1253)の覚りの言葉「身心脱落(しんじんだつらく)」は、中国的な「心塵脱落」という超越的境地を仏法とする精神主義の否定でしょう。超越者の否定です。道元は古仏といわれるほど仏教の本質に忠実だったといわれます。しかし、道元においても仏教は日本的祖霊思想化しています。「正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)」に「諸法実相」という項目があります。「諸法実相」という言葉をインド人は「諸法の実相」という意味で語り、中国人は「諸法は実相である」と言うといいます。ところが道元は「実相は諸法である」というのです。道元は誤読の天才ともいわれますが、そこには道元の無意識を支配している日本的世界観、日本的祖霊思想があるのです。つまり、インド人は現実世界は虚妄であるとして、見えない真理を求めます。しかし中国人は現実世界は見えない真理の現れだから真理を獲得することによって現実世界に対して力を得ようとします。対して、日本人は現実世界の様相がそのまま見えない真理の姿だというということです。道元は「自然も人間社会も、すべて仏法である」とい いましたが、彼の「仏法」は唯心論でも唯物論でもない、いわばアニミズムの延長のようなもの、いわば霊的心身一序・物心一序論といえるでしょう。精神と身体を別のものに見る立場からの超越です。有名な「いわゆる有時は、時すでにこれ有なり。有はみな時なり」という哲学的言葉もこの思想を良く表しています。道元は祖霊信仰的な日本人の心を思想化した初めての思想家ということができるでしょう。彼の思想においても、「只管打坐(しかんたざ)」というように、シャーマニズムは否定されています。
 天台法華教の継承者日蓮(1222~1282)においては。天台宗的シャーマニズムもそのまま受け継いでいます。日蓮の日本的宗教としての特徴は即身成仏とその平等性をさらに徹底しているところでしょう。日蓮が尊重した仏達は、普賢菩薩、文殊菩薩、観音菩薩、弥勒菩薩、あるいは金剛菩薩といった平安貴族が崇拝した上品な菩薩たちではなく、釈迦法華教説法の時大地から湧き出たとされる地涌の菩薩でした。彼自身は無数の地涌の菩薩の代表格、上行菩薩の生まれ変わりと称しましたが、「南無妙法蓮華経」とお題目を唱えるものはみな地涌の菩薩ということになるといいます。代表格の四菩薩(上行菩薩・無辺行菩薩・浄行菩薩・安立行菩薩)以外の無数の地涌の菩薩(地湧の菩薩)は覚りの導き手ではなく、大地の生命力のように現世を稼働的に生きる生命力の権化のように思われます。この活動性が日蓮宗の特徴となって、戦後の創価学会躍進の理由でしょう。
 留意したいのは、日蓮の有名な言葉「念仏は無間地獄の業、禅宗は天魔の所為、真言は亡国の悪法、律宗は国賊の妄説」は親鸞や道元の思想に対してではなく、平安貴族の信奉した仏教に対してであったということです。もし日蓮が親鸞や道元の思想を知っていたらどう思ったでしょう。もっと違うものになったかもしれません。彼らは、重なる時代を持ってはいましたが、けっきょくお互いを知らないままに終わったようです。

「祇園精舎の鐘の音 諸行無常の響きあり」と平家物語の冒頭に語られているように、仏教の精神は現世否定ですが、日本人のそれは無常感といったムード的なところが大きいようです。平安貴族達には遁世ということもよくあったようですが、どうも一時逃れ的で、現世否定というより現在否定に過ぎないようで、本質は現世主義と思われます。アニミズム・シャーマニズムは現世主義なのです。あの世はあくまで裏の世界なのです



















































インド人の思想は霊魂と現実との区別があまりないように思われます。地湧の菩薩とは釈迦の説法を聞きに来たシュードラやアウトカーストの民衆のことではないかと思います。

日蓮は常楽我浄という涅槃の境地をそういう法華信仰に生きる民衆の中にこそ見るのでしょう。