ニューサイエンス
 第二次世界大戦の戦後、唯一絶対神の枠組みを超えようとする思想が現れ始めました。ハイゼンベルクの「S行列理論」J・チューの「ブーツストラップ理論」など根源探しを否定する理論が現れました。彼等は主張します「もはや世界は物体ではなく、関係性であり、自己調和による全体である」と。仏教の「空」を理論化したようなものです。そして「タオ自然学」を著したフリッチョフ・カプラのような科学と精神、あるいは生命とを結びつけて考えるニューサイエンシスト(ニューエイジ)といわれる科学者も現れました。
 こうして科学の進歩が皮肉にも『神』の権威を侵し、科学信仰の時代をもたらしたのですが、それは同時に唯物的世界観の凋落期の始まりでもあったといえるでしょう。とはいえ、現在でも科学者の多くは機械論的考え方を持っているようですし、根源的粒子、素粒子を探し続けていますし、一般庶民的には『神』は未だ生きています。
 アインシュタインは「神はサイコロを振らない」といいましたが、大自然は相対性理論の適用されるような巨視的次元においては物理法則的に動いているといえるでしょうが、電子や原子のような微視的次元においては不確定的です。生命活動を加えた全体的現実においては、天候のようにきわめて不確定的な動きをします。人生も栄枯盛衰、生病老子を繰り返すのが法則といえるでしょう。しかし今日死ぬか明日死ぬかは不確定です。やはり「神」もサイコロを振っているのです、すごろくのように、ヒンズー教の『神』のように。

 現在、『神』による統一を失った唯物科学は、当然のことながら、純粋に唯物的な「一なるもの」となる隠された秩序、「統一理論」を模索しているようです。物理学的に何か普遍的・統一的な力・価値を見いだそうというのでしょう。彼らは次のように問うでしょう。「物質エネルギーはそれぞれの時間・場所で勝手に動いているものだろうか、それはあり得ない。コヒーレンスという現象のように、少なくとも連動しているはず。量子力学の「奇妙な世界」も、連動しながら全体として何らかの統一行動をしているのではないか」と。

 「大自然」は無数の事物で成り立っています。それぞれの事物はそれぞれ独特で複雑なエネルギー状態といえます。地球にあふれる無数の生命、その生態は不可思議で神秘的です。そのエネルギー状態を単に偶然に生まれたといえるでしょうか。この宇宙は偶然に生まれたものに過ぎないのでしょうか。
 ビッグバン理論のように、「大自然」は『永遠』の原初的エネルギー状態から分裂して生まれたという考え方があります。それを偶然の結果か、必然的結果かという論争があります。一体偶然とは何でしょうか。原初のエネルギー状態から偶然に「世界」は生まれたのでしょうか。偶然にこの「大自然」は生まれたのでしょうか。
 さすがに現代の科学的唯物論者は世界を偶然の産物とは考えないようで、それゆえに『統一理論』を模索しているのでしょう。『大自然』の全体には統一的な動きがあると思っているのです。なぜ統一的に動けるのか、見えない包括的な力が働いているとしかいいようがないでしょう。それを物理的な理論で語りうると考えているのです。
 それでは大自然は決定論的に存在しているのでしょうか。それもまた否です。量子論の登場以来、現代では決定論を信じる物理学者はほとんどいない(それでも少しはいるという、人間の心の頑迷さに感心させられます)ようです。我々はいまや確率論的世界に住んでいるのです。世界は決定的ではないが確率的に決定されているといえるでしょう。確率的という揺らぎは自由意志的な心を持った統一的存在を思わせます。つまり世界は法則で統一できるような物質的存在ではないが、何らかの自由意志によって存在しているということではないでしょうか。
 思うに、物質エネルギーが量子状態から原子、原子から分子、分子から物質、そして生命へと展開するのを偶然というにはあまりにも不思議なことではないでしょうか。そこには、生物において卵から胎児が生まれ人間となるようなDNA的プログラムがあるように、この世界を形成するプログラムがあると思えてなりません。そのプログラムの展開はコンピュータープラニングによるアニメーションのようなものではなく、そこには生命的なもの、成長発達の本能のようなものがあるのではないでしょうか。唯物論者はそれを物質エネルギーのによって形成された意志というでしょう。いや、意思を形成する物質ということでは矛盾ですから、
意志に見える現象というでしょう。しかし、そのように見る『意識』に対して、そのように見える現象とはいえないでしょう。
 「統一理論」は物理現象に対してだけならそれは可能かもしれません。しかし、生物は物質とは全く異質なものでしょう。生物には生物の法則があるでしょう。いや生物学の現状を見ると、複雑で多様な生物には統一的法則による理解など不可能なような気がします。まして生命や心を物理的に理解しようとするのは狂信的行為としかいいようがありません。
 個別の動きと見えない全体的包括的力、ということになると物質現象のうらにも見えない意志のようなものがあると考えられます。その現れが物質エネルギーともいえます。、そうなると宗教時代の世界観と何ら変わりありません。ノーベル医学生理学賞を受賞したジョン・C・エックルズは「世界は心の世界と物資世界に分かれており、物質世界の一部である脳と心の間には密接な関係がある」といい精神と物質の二元論を主張します。彼の考え方は、この辺のことを理解してのことでしょう。

エックルズの二元論の特徴は心の世界と物質の世界を分けたことのようです。しかし脳と心の相互作用については全く謎だが連絡脳があるはずだといっていたようです。
サーンキャ哲学の二元論では心は精神と別な存在です。そして物質世界は心の世界にあります。相互作用は霊的遭遇として理解されるようです。
 「心」という存在を唯物エネルギーの状態として考えてみましょう。人間の心は複雑怪奇なものです。一人一人の人間にはそれぞれ独特な心的状態があります。それは様々な心理状態の複雑に絡まった総体です。肉体が死によって解体したとき、この心というエネルギー状態も消滅するといわれます。なぜ消滅するといえるのでしょうか。「心」と脳の働きは密接に関係しているのは明白ですが、「心」を脳の働きにだけ存在すると断言できるものでしょうか。唯物論者は「認識は客観的実在の脳髄による反映である」といいますが、その反映を見るものである意識はどこに存在するのでしょうか。「意識」という絶対に見えない存在がある以上「心」を脳の働きだけに帰するのは不可能でしょう。

NHKの「ダーウインが来た!」をみると、生物にも心があると思わされます。いやそれ以上に、自然の生態、生物多様性を全体で包んでいる地球そのものの心と生命をさえ感じさせられます。

 現代科学の世界で「クオリア」という言葉がよく使われるようです。感覚質と訳されるようですが、色や香りなど五感における内的体験自体をいうようです。この問題は「自由意志」に対するのと同じように、唯物論者を困らせているようです。唯物論者には内的体験ということ自体が理解できないように思われます。しかし、どんな理論を組もうと、どんな数値化が行われようと、感覚自体(感覚質・意識内容となる感覚)はけっきょく絶対的非物質であり、「こころ・意識」の問題ではないでしょうか。
 「DNAに魂はあるか」の著者ノーベル賞受賞の、天才といわれたノーベル賞化学者フランシス・クリックは「人間は、その喜怒哀楽や記憶や希望を含めて、無数の神経細胞の集まりと、それに関連する分子の働き以上の何ものでもない」といいます。脳科学の成果を引いて、「自由意志」についても当然コンピューター的反応に過ぎないとしています。彼のような唯物的科学者は「心の働きはすべて脳の働きであるということは、いつか証明される」と信じているようですが、何の根拠もないことです。『魂』とは物質的現象に過ぎないというわけです。こういう考え方をカール・ホッパーという哲学者は約束唯物論といったそうです。
 このように超一流の頭脳の間でも意見が分かれるのは、「魂」の問題がけっきょく「脳」の問題ではなく、「心のあり方」の問題だからということを証明しているように思われます。

 現代科学の最先端においては、量子物理学によって唯物信仰の根拠は、唯物信奉者の物質的心には理解できないとしても、根本的なところで消滅したと言っていいでしょう。そして、五感や感情、思考の体験者である「心・意識」、すなわち『魂』に焦点が当てられるようになったのです。
 けっきょく、宗教的世界観も唯物的世界観も、他人はもちろんのこと自分でさえ見ることのできない「心・意識」、すなわち『魂』の産物といっていいでしょう。いまや唯一絶対神教とその双生児である唯物信仰の世界では「心」自体が問題となる時代となったのです。しかし、唯物信仰の洗礼を受けていなかった発展途上の世界は、共産主義信仰の世界を含めて、いまやっとその洗礼を受けつつあるところで、「心自体」の問題はまだ現れていないようです。