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仏教 仏教の総体的解説 私的仏教史概観 | 五蘊 識 種子 如 |
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自由思想の中から、土俗的宗教を吸収して勢力を拡大し、紀元六、七世紀くらいまで千年ものあいだ隆盛を誇ったのが釈迦の仏教でした。その思想的特徴はバラモン教における創造原理の否定です。それはアートマン・魂(意識者)の「無」を提示する思想でした。しかし輪廻思想は持っていました。 魂が存在しないのなら輪廻する主体は何かというと、「心の流れ」であると表現されるようです。個々の人間や動物の魂は様々な「心の働き」が、縁起・因縁によって一つの集まりとなり、継続している状態と考えられます。つまりそれが「心の流れ・魂」です。仏教において「死」とは寿(生命力のようなものでしょうか)と煖(ナン、体温)と識(心の流れ)を失った肉体が変壊することだといわれます。(唯識による) 創造ということの存在しない、つまり世界に始めも終りもないのが仏教です。そこには統一的な世界原理というものも存在しません。それでは何によって世界は現象しているのでしょうか。仏教思想には全体を統一した思想はないようですから、(法華経はすべての仏教の頂点に立つと主張しているようですが)私見で総括してみましょう。 仏教大乗と小乗という区別があります。 小乗とは「一切法」を「一なるもの」とした哲学的な仏教に対して、大衆救済を目的とした信仰的な仏教からの別称です。小乗仏教は涅槃寂静の世界への解脱を目指します。 仏教大乗思想における「一なるもの」、それは『名なきもの』、仮の名は『如』といったところでしょうか。哲学的には「空」と「唯識」という思想があります。 『如』は『法性(ほっしょう)』、『仏性』などといわれる無差別不変の本性と、無常な差別相を展開する『法』(存在を意味する法、『諸法』)とでなっているといえるでしょう。『諸法』のなかでも『縁起』法は仏教の根本原理として有名です。『法』は統一原理ではなく、心の動力源やシステム、要素の集まりのようなものです。そしてどのようなシステムや要素がどのようにつながるかという因縁によって「魂」の持つ世界観が違ってきます。それが、様々な如来や仏土が存在する、仏教の持つ多世界性の元となっているのでしょう。仏教に学んだヒンズー教より遙かに多次元で多様です。それは、創造神を持つ宗教では世界を作るのは神一人ですからおのずから限界がありますが、仏教では個々の「魂」それぞれが世界を持つのですから、魂の数と同じ数だけ世界があるということになります。それだけでは独我論の世界に陥ってしまいますが、『法』には普遍的な世界像を提供する要素が備わっているようです。 唯識思想では、阿頼耶識(あらやしき)に倶有の種子(シュウジと読む)、あるいは本有種子という共通の存在が内蔵されていることによって、基本的な世界観を共有できているとします。また、すべての人に菩提心の種子があるといわれます。解脱の意思も、自己から発動する意志ではなく、縁によって発芽する菩提心という倶有の本有種子によるものといえるでしょう。 |
仏教は魂の存在を否定しますが、それはアートマン的な永遠不滅の生命原理としての魂のことなのですから、その永遠性、実在性は問わず、ここでは単に「見るもの聞くもの意識するもの」として「魂」という言葉を使っています。 仏教本来の立場とは、世界を苦とみることです。人間を形成する五蘊(種々の神的要素の集まりである世界)のうち「受想行識」という心の働きの中で「識」は「心の王」といわれます。他の「働く心」は欲望や感情によって動くものと考えられ、それゆえ悪行も犯す民衆みたいなものということでしょうか。 「空」はインド大乗仏教の本質、「諸法空相」という世界観を表しています。 「種子(しゅうじ)」という考え方はきわめておもしろいと思います。「識」の本体である阿頼耶識は行動や心の動き(業)の影響を蓄えるといいます。それが個的な種子(しゅうじ)となって、心の働きの差異、すなわち魂の能力や人格などの差異、個性を生むのでしょう。経験をそのまま記憶するのではなく「影響を蓄える」とはどういうことでしょうか。影響とは、湖に石を投げ入れると波紋が起こるようなことでしょう。その波紋が阿頼耶識に記憶されるということでしょう。言い換えると、経験を、経験そのものではなく、心のひだのようなものとして、樹木の年輪のように記憶するものであるということでしょう。つまり死後も続く「心の流れ」、「魂」とは「識」の本質としての阿頼耶識といえるでしょう。 |
『心』とは何か、それを意識に焦点を当てて説明したのが「唯識思想」でしょう。「唯識」は「識(認識作用)」のみ存在するという一見神秘的な思想ですが、世界を真理の展開という視点から見るのではなく、個人における「心の働き」という視点から見ているのです。それは始めに神ありきのバラモン教に対して、人間一個の心の救いを求めた、始祖釈迦に由来する、仏教本来の立場に立っている思想といえるでしょう。 デカルトは「我思う、故に我あり」といいましたが、「思う」主体が私であるということは証明されているといえません。しかし「思う」という意識だけは絶対的に存在するわけです。世界のことはすべて個人の意識によって存在しています。それゆえ、唯識の思想家は、意識作用の主体を仮に「識」と名付けて、「識」のみが存在するのではないかというわけでしょう。『心』とは『識』である、あるいは『識』と「六根」など他の心的要素が結びついたものであると考えられます。しかし、「唯識」は最終的に『識』も「心」も無いといいます。それは『識』も『心』も『法』の現象に過ぎないからでしょう。実在するのは『如』とその身体ともいうべき『法』だけであるということになるのかもしれません。 |
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仏教には『法華教』に顕著な「方便」という思想があります。『方便』こそが宗教としての大乗仏教の本質といえるかもしれません。本来は人格神的な存在を否定する仏教ですが、大衆を導くために如来や菩薩という人格神的存在を、宗派ごとに本尊あるいは信仰対象としてたてます。守護神として天部の神々もいます。そして大衆の魂も実体のように扱われるようです。すべて、それぞれ『心の流れ』の有り様からきているといえるでしょう。『心の流れ』など、仏教の真理は相当の段階の悟りでなければ理解できないので、まずは民衆の次元にたって真理の方へ導こうということでしょう。「法華教」には「空」という観念の価値は薄いように思われます。 「仏教思想」はその普遍性の高さによって「ヒンズー教」を、また中国において「道教」という民族宗教の成立を促しましたが、またその普遍性によって民俗宗教に吸収されていったといえます。 |
大乗仏教 主要経典 密教 |
仏教者は仏教とは何であるかと問われるとき、基本的には仏教は「三法印」と答えるようです。「仏教学辞典」(宝蔵観)によると、最古層の経典、雑阿含経には「(仏教は)諸行無常・諸法無我・涅槃寂静の三を説く」とあるのがそれです。しかし、これは小乗仏教の考え方といわれるようです。 大乗思想は般若心経にあるように「諸法空相」といいます。世界をいわば空間的関係でとらえる考え方で、これは「如来」から見た世界像だといわれます。すなわち般若心経を語った人、そして「空の思想」を龍寿に伝えたのは「如来」だということでしょう。また、「如来」のみが実体であり、この世界は実体ではないといいます。「如来」だけが真に存在するということでしょう。この「如来」は無知な衆生に対する方便としては釈迦という人間であり、仏像や仏画に表現される存在です。しかし悟りを開いたものには、涅槃経のいうところの仏性と同じく心性を指しているでしょう。無常も無我も涅槃も否定するわけではありませんが、それらは関係性の中で生じた「空」であり、重要なことではないということでしょう。しかし、「唯識思想」においては、あらゆる心性に対して根源的実在を認めているようです。「空の思想」は「如来心」から見た世界と言われるのに対して、「唯識思想」は人間(仏教者は凡夫という)から見た世界と言われるようですが、この思想は凡愚大衆には無縁ですから、さしづめ「理性心」から見た世界ということで理解できるでしょう。 以上がインドにおける仏教です。 中国仏教では「諸法実相」ということになります。「法華経玄義」では「諸法実相」というのが仏教であるというそうです。「現実すべてがそのまま真実の姿」ということでしょうか。諸法の実相、実体ではないが実相であるということ、つまり、真実がどんなものであってもすべて現実に現れているのであるから、生きる現実において真実在の力を得ようという考え方でしょう。原典では現実態として様々な現れ方をする如来(現象の背後にある真実在)を「諸法実相」の一言で片付けたといえるかもしれません。それによって諸法の実相が諸法は実相であると、意味が変化してしまったのです。諸法にも実体性があるという感じがしてきます。ただし中国の仏教者は「諸法」の実体性を重視したわけではないようです。「実相」の方を重要視したようです。こうなると「仏性」も「如来性」も重要性がなくなるようです。インド原典の空想的な如来重視から諸法(つまり現実)重視に転じた観があります。言語表現は違っていても、けっきょく中国仏教は道教的に理解するほうが良さそうです。日本仏教にいたっては祖霊信仰的神道的です。 |
カオス・混沌 中国人はなぜ「ありのままの真理」に「如」という文字を当てたのでしょう。如の語源は「神に祈って従順になる」であり、それが「真実に従う」から「真実のごとし」、そして「似ている、同じ、等しい」という意味に転じたと考えられているようです。そして『如』とは「常のごとし」という意味だといいます。しかし如という文字にはもっと深い意味があるような気がしてなりません。 恣意的に次のように解釈したいという気持ちがあるからでしょう。 女性は生命生み出すものです。「女はカオスだ」ともいいます。口もまた言葉を生み出すものです。ギリシャ語のカオス(混沌)は口腔を意味すると言います。つまり如という文字は混沌を意味するのではないでしょうか。このほうが中国的だという気がします。 |