「唯物論」                    「DNAに魂はあるか」

 唯物論の本質を理解することは、世界を理解することにおいて、最も重要なことだと考えます。人間思想のすべては目に見える現実、そこから始まっているのですから。「インドの哲学大系」、その翻訳原本であるマーダヴァの「全哲学綱要」が「唯物論者の哲学」から始まっている意味もそこにあるのでしょう。
 エピクロスは西洋哲学における唯物論の嚆矢として有名ですが、インド唯物論者で有名なのはチャールヴァーカです。彼は釈迦と同じ時代の人のようです。(インド思想史)釈迦の時代に排出した多くの思想家と同じように、唯物論者の精神の根底には、古来の祭祀宗教的な権威を後ろ盾にした支配権力、階級や人種的差別への反感があり、それがもっとも強く現れているように思われます。
 さてチャールヴァーカは、一般的に人間のみならず生き物は「命ある限り楽しく生きよ。死に襲われる領域でないものは、存在しない。身体が灰になってしまえば、どうして生き返ることができようか」という、知覚・感覚的な快感原則で、物欲・愛欲が人生の目的であると考えています。彼らは天国や極楽浄土など目に見えない世界に関する目的意識は正常な思考力をもたないものから生まれたものだといいます。「精神は、酵母からアルコール分が生まれるように、物質元素から生まれるのである」ということです。だから「精神の識別作用のみであるアートマン(私・魂)はこれらの元素から生起し、それらが滅びるに従って消滅する。死後には意識は存在しない」というのです。なぜなら、身体を離れたアートマン・魂の存在を証明する認識根拠はどこにもないからだということです。唯物論者は現実的知覚を絶対的なものだと考えます。証明できないことは存在しないことであり、現実に見ることのできないものは存在しないことであるというわけです。科学のない時代から唯物論者の言うことは同じです。知覚・感覚だけを認識の根拠とするのは現代では多くの人が考えていることと全く同じです。かし、古代的多神教が支配する時代においては、ごく少数の異端者にすぎなかったでしょう。
 知覚・感覚だけを認識の根拠とすると、必然的に知覚・感覚で得られる快楽が人生の目的になります。特に性欲と食欲という本能的欲望を満足させることが人生の最大目的となります。そして、宗教家などがよく口する「快楽には苦痛が伴うから人生の目的であるはずはない」というのは間違いだということになるのです。なぜなら、肉体的快楽が苦痛を伴うからとといって否定するのは、「骨があるから魚を食わないというのと同じである。白い最上の米が含まれている稲を籾殻がついているからといって捨てる人はいない」と彼は論じます。現代人がよく口にする言葉に直すと、人生は苦しみを乗り越えてこそ快楽を得られるのです。ふぐは毒があるからこそうまいのです。
反対に宗教的人間は「もし来世における安楽が存在しないのなら、学識に富む人々が、どうして多くの財貨と身体的苦労を費やしてまで宗教的行事に力を尽くそうとすることはあり得ないではないか」といいます。多くの立派な人があるといっていることから極楽の存在を推量できるといいたいのです。
 チャールヴァーカ は答えます「宗教の教典など、その内容は虚偽と、矛盾と、同義反復である。だから、教典の信奉者を称するものたちも意見が分かれて、互いに排斥し合い争っているではないか。教典など単に嘘つきのおしゃべりに過ぎない。宗教的祭事などは、正常な思考能力のないものたち、神官や僧侶などの生計手段に過ぎないと、現代人の口にすることと同じようなことをいいます。そして反対者たちの唱える、推理や類推が認識根拠になり得るという説を論理学的に論破しています。もっとも、論理学としても原始的な時代なので、その論戦は言語空間での遊び、現実を遊離した空中戦といった感なきにしもあらずです。ただ、我々は現在の自分、現在の価値観で過去を批判しがちなものですが、万象に霊力が宿ると思われていた時代ことで、論拠が現実物事や聖典に求められているのも無理のないことかもしれません。唯物論者といっても現代のような無味乾燥な物理科学的な感じではなく、精神を物質からの発酵、アルコールのように見るなど、現実な物質現象自体が霊的な実体だったのかもしれません。
 また、文法の違う言語の論理、論理的言語の煩雑な論法を、非論理的言語の日本人としては、吟味することはしませんが、その論点だけわかりやすく描いてみましょう。論点は推理が知識の根拠になるかどうかということです。
 たとえば仏教信者は「あの山から煙が立ち上っている、火が燃えているから(あの山は煙を持っている、火を持っているから、というのがインド人の言い方のようです)」という状況において、仏教者が「知識の根拠を知覚・感覚経験のみとして推理の力を否定するなら、煙をみて火事だと、人が行動するということをどう考えるのであるか。推理の力なくしてどうしてできるだろう。何事にも原因があり、その原因を推理できるとき、それを否定する根拠がない場合はそれを肯定すべきである。つまり、あるものが存在すると考えられる場合、それに何の矛盾も現れないならば、その存在は肯定されるべきである。そのように聖人の言葉や教典から仏や極楽浄土の存在を推理することができる」と主張する。詭弁ですが、それに対して唯物論者は「火と煙の因果関係、火が燃えると煙が出るということが知られているから推理が成り立つのであって、煙自体から推理できることではない。そのうえ火が燃えるとき必ずしもに煙が出るとは限らない。しめった薪からは煙が出るが、炭火からは煙は出ない。そのように推理は知識の確かな根拠とはなり得ない。よって、立派な人といわれる人の言動や教典の存在から、仏や仏の国が存在するということはできない」と論駁しているようです。
 仏教者が唯物論者に「唯物論者は知識は推理根拠にならないといいながら、自派や他派の学者の言葉を論拠として提示したではないか」と反駁していますが、単なる引用を根拠としたとすり替えて難癖つけているだけの詭弁ようです。仏教者はいう「あなたは、仏教学者の間にはたくさんの意見の相違があるということによって、推理は正しい知識を得るものではないというが、あなたのその結論はそういう事実を根拠として推理した結果であって、推理の力を認めているではないか」と。これなど揚げ足取りの詭弁で、唯物論者のいっているのは推理は正しいかどうかを吟味する必要があるもので、必ずしも正しい知識根拠とはなり得ないということで、推理を全面的に否定しているわけではないのです。仏教者が答えるべきは、自分たちの推理が正しいという証明でしょう。唯物論者の方が論理的といえば論理的かもしれません。
 ただし、仏教者の弁を詭弁ばかりというつもりはありません。仏教者はいいます「あるもの(たとえば仏)を知覚できないということに基づいて、そのものの存在を否定しているのは、無知覚ということから推論して否定したことになる」。これは唯物論者の考え方における論理欠陥を突くのに正鵠を射た言葉のようです。ともあれ見えないものの存在を否定するにも肯定するにも、論拠はどこにもないのです。
 唯物論の反対者たち、すなわち宗教的人間は、立派な人の行為や言葉、教典からあの世の存在を推理できるといいたいのでしょう。宗教的精神が支配していた時代は聖なる言葉に対する信仰が強かったからでしょう。それが根拠のない理屈であることは、論理学を待つまでもないことです。実証のない推理は幻想と異なりません。学識識見の優れた人のいうことが必ずしも正しいことではないし、教典や聖書が真理を語るものでないことは現代では常識(といってもそれは優れた少数の人間にとってだけで、多くの人にとっては未だのよう)です
 ともあれここでの正しい理解は、推理は必ずしも正しい知識をもたらすものではないということです。火のないところには煙は立たないという因果関係を知っているから、煙を見て(たとえそれが誤認であっても)あそこに火があるという推理は成り立つのです。だがもっと多くの情報を得れば(例えば、時として水蒸気を煙と見間違うこともある)結論は違ってくるのです。またその因果関係を知るのは知覚・感覚と記憶と思考・推理からです。
 加えて言い添えますと、知覚・感覚も思考も記憶も誤りやすく消えやすいもので、正しい結論を導くとは限らないのです。よく人は「前世の記憶など無いから、前世など無い」といいますが、記憶ほど消えやすいものはないし、肉体が滅びたら脳にある記憶など消えるのが当然だということです。

 観念的魂は究極的・絶対的な幸福を求めます。また、究極的絶対的な存在を求め、この世界を作っている見えない力がないなら、世界はでたらめな偶然が支配することになると考えます。だから宗教的幻想にとらわれやすいのでしょう。それに対して目に見える物、手に触れるものしか信じない唯物的魂は、現実をそのまま受け入れます。物には「火は熱く、水は冷たく、また風邪は熱と冷との両方の感触がある」というように、自然には自然の本性があり、それによって自然の統一があると考えます。しかし、彼らは心とか精神というものが見えないものであるというを無視してしまいます。外的感覚器官に与えられるものだけにとらわれ、内向的な知覚・感覚があるということ、その上、自分自身の思考も見えないものであるということの重要さに気づかないのです。おそらく、内的知覚・感覚の発達が遅れているのでしょう。

  「DNAに魂はあるか」(講談社)でノーベル賞受賞の、天才といわれた化学者フランシス・クリック「意識(と仮想的不死の魂について)」の不思議について科学的解明を試みています。彼の「驚くべき仮説」(つまり彼の魂の様相に合った想像です)とは「人間は、その喜怒哀楽や記憶や希望を含めて、無数の神経細胞の集まりと、それに関連する分子の働き以上の何ものでもない」ということです。彼の意識には量子世界は通常生活に対してと同じように、心と魂の問題に対しても、大して重要ではないようです。放射能の影響さえ無視していいとまでいっています。ずいぶん偏狭な考えに思えますが、偏狭さこそ天才の証でもありますが、科学者である彼にとって科学に用のないことは無いも同じなのかもしれません。彼は現代のパラダイム変換を歌う哲学者たちが批判する還元主義を推奨します。それは彼の科学的姿勢の裏で、無意識でのことですが、仮説の実証に不都合なものは無視されるということを意味するでしょう。
 彼にとって意識と知覚(その器官ともほとんど同一視する)は同じものだということです。これはインドの唯物論者と同じ考えで、唯物論的人間に共通の意識です。彼が視覚現象を手がかりとしてニューロンに魂があるという予想するというパターンも共通です。彼は大脳の認識作用、脳のシステム、特にそのニューロン集合体に意識があるというのです。だから将来意識を持ったロボットを作ることができると信じているようです。
 P30でウイリアム・ジェームスの「注意が何であるかは、誰でも知っていよう。同時に必要な一連の思考やものごとの中から、一つだけ取り出して心にとどめることである。それは一つのことを効果的に処理するために、他のいくつかの事柄から退くことに他ならない」という言葉を引用しています。彼はこれによって知覚の性質を語りたいのでしょうが、心理という面からのアクセスも可能です。何かを考えるとき自分の好きな考え方に向かって効果的な論述をするために、という選択があることです。そのようにして彼が選択するのは知覚の機能面です。
 「人間は神経細胞と分子の働き以外の何ものでもない(つまり魂など無いということです)」というこの本の姿勢を証明する実験の前提として提案されている「意識」に関する考え方(P41) を見てみましょう。
一、意識を厳密に定義するのは現在は危険である。
二、意識は何のためにあるかという議論も時期ではない。無意識の価値は小さい。
三、高等な哺乳動物には意識の基本的な特徴がいくつかある。だから意識は言語システムを必要としない。
四、下等動物に意識があるか無いかの問答も時期尚早で無用である。なぜなら人間の意識と神経組織との関係が解明されていないから。だから人間の場合も特定の場所に意識があるという考えはナンセンスである。
五、自意識は意識の特別なケースだろうし、催眠状態、白昼夢、夢遊病といった意識の以上状態も、ここでは考えない。なぜならこの実験に役に立たないから。

一と二は、科学的解明が十分ではないからということで、哲学や形而上学、精神分析学からの定義に対する拒否でしょう。唯物的感性に固執する彼は、その方面の知識には不信感が強く、興味が無いようです。 彼は自分の感情など心というものに対する知覚・感覚が薄いという印象です。自分の感情というものを検証する能力、自覚能力、自己感覚が弱いようです。三は、言語や心からでなく、視覚から意識に迫れるとする彼の立論の前提でしょう。四は、科学的態度として当然のことですが、ここでは意識のありかを脳や神経の特定の部位にあるという考え方を否定するための前提でしょう。五は、科学的思考の特徴で、証明のために有利な条件を選ぶということです。こういう思考方法は、不利なものが出そうな条件は無視できます。彼はそれを科学的態度として正しいという信念を持っています。
 そして彼らは自分たちに有利な形態は「視覚的知覚」であると結論します。これらの前提の後彼は「目はなぜあるのか」P47 という設問(彼の回答は進化論的枠内をでていません。進化論は結果論に過ぎません。僕にいわせれば目のない世界などないと同じなのですが)から始めて、「見えることの不思議」の解明に向かいます。視覚のみならず、脳や神経の働きは神秘です。僕ならそれこそ魂の神秘だと思いますが、彼には脳自体の偉大さを思わせるのでしょう。
 彼の論述の意図を結論的にいいますと、P24にある「脳のどこかから魂が世界を見ている」という考え方(彼にいわせるとコビトの錯覚です。彼は魂に大きさがあると錯覚しているのでしょう。彼の感覚はあくまで唯物空間的です)の否定です。ところが彼が証明したいのは「世界を見ている作業はすべてニューロンによって行われる」ということです。特定の場所から魂がみているという考え方に反対するのはわかりますが、作業をしているのがニューロンだと証明しても、見ている魂を否定することにはなりません。魂がニューロンの作業をしているとか、その作業を通して見ているのだと考えることもできるのです。彼が言いたいのが「それを見、それを意識しているのは、ニューロンの働きを通した脳の全体運動だ」ということだとしたら、単に脳が見ているというだけでいいでしょう。見ているものを魂と定義するなら、脳こそ魂だということになります。かれは「神経組織のある部位に独立した意識があるのかという質問はナンセンスだ」といっていますが、これも意識のありかを特定する行為に過ぎないでしょう。彼には脊髄など特定の部位と脳・神経全体とは違うという認識なのでしょう。けっきょく、そのような結果を科学はいつか出すだろう、というのが彼の予想(信念に近い)のようです。しかし、彼のいう意識の場所とは、ただ単に意識が動くときに興奮現象が現れる場所に過ぎないのです。彼は最終章で自由意志についても考察していますが、結論は「決定論的だがカオス的状況も考えられる。この場合、結果は基本的に予測不可能なので、その意思は自由であるように見えるかもしれない。」といっています。意思と意志は少し違いますが、ここでは同じようなものとしていいでしょう。そして結論として「自由意志は(大脳の)前帯状回かそのあたりにある」p363 と予想しています。彼にとって「自由意志」もコンピューター的ランダムな選択に過ぎないようです。ただし、科学者としての良心によって、将来宗教的なり哲学的なりの考え方が正しいと証明される可能性は否定していません。
 振り返ってみると、彼の意識にある魂論とは、心臓や脳幹に魂の場所があるという考え方に過ぎません。仏教などのような唯心的魂論を知らないのでしょう。

 ここで自由意志についてひとこと。   
 人間とは考える快楽に生きる動物であるとさえ言えます。飲み食いについて考える、異性について考える、自分と他人のことを考える。さまざまな考える中に生きているのが人間でしょう。何も考えない人間はいないのです。典型的なのがギャンブルです。儲かりもしないことになぜ人は熱中するのでしょう。推論が的中する快楽を求めているのですが、その推論すること自体に瞑想にも似た深い快楽があるのです。しかし、だからといって考えることが目的であるはずはないのです。この場合の目的は金儲けなのだといえます。しかし目的の重要性は小さなものです。つまり目的は多種多様であるといえるでしょう。人生に普遍的な目的などないのです。しかし、この考えるということの根本には何らかの「意志」、魂の「自由意志」があると思います。宗教的思想は根本に「魂の自由意志」をおかなければ成り立ちません。アートマンの「自由意志」とはマーヤの魔術から脱してブラフマンとなることでしょう。魂に「自由意志」がなかったら世界に何の存在意味もありませんもちろん唯物的即物的魂には意味など必要ないでしょうが。
 古代インドにおける唯物論者の「推理は認識にいたる手段になるが、必ずしも真実にいたるとは限らない。その真実の証明は事実によるしかない」という考え方、それは現代の唯物精神でも同じです。唯物的世界観には魂の自由意志というものを感じさせるところがありません。唯物精神は目に見える現実に忠実で単純です。それが科学的実験の成果をもたらすものなのですが、そうして証明されたことも究極の真実とはならないものです。つまり唯物論もその正当性を証明する究極の手段はないのです。現実は時間的に発展変化するものです。万有引力から相対性、そして量子へと移った物理学がそれを証明しています。こうした現実世界の進歩、進化も「自由意志」に関わることだと思います。
そして、唯物的現実がミクロからマクロまで究極的に見通せるようになると、何か、見えない存在に突き当たるのではないでしょうか。そこから先は推論しかありません。それが現在の状況だと思います。