宗教的霊魂思想のまとめ                             自由意志について

 霊魂思想の歴史を振り返ってみると、霊魂の思想とは人類の霊的なルーツ探しといえるでしょう。そして、彼らは「一」なるものに到達したのでした。その最初は『盤古』や『プルシャ』のような『巨大原人』だったのかもしれません。そして『原人』のひな形としての「人間」という考えです。人間の祖先としての『原人』です。アニミズム時代の『原人』は霊的存在ですから、けっきょく魂のルーツ探しは『祖霊』探しということも出来るでしょう。『原人。祖霊』は霊的集合体と考えられます。

 人類は人口が増加するにしたがって各地に分散し、それぞれの民族を形成していったと考えられます。様々な土地で民族を形成するに従って『一なるもの』・『祖霊』に対する考え方も様々に変化し、発達して精神主義的になっていきました。最終的には、大きく分けると「唯一絶対神思想」と「唯物思想」、そして「一元多神思想」と「唯心思想」になりました。
 『唯一絶対神』を信じるものにとって真に存在するのは『一なるもの』のみであり、「人間」は『一なるもの』によって選ばれた存在として創造されたとしました。「心」は「楽園」の「知恵の実」からもたらされたものといっていいでしょう。『一なるもの』が「楽園」になぜ「知恵の実」をおいたのかは不明です。
 真の実在として『物質元素』を信じる古代唯物論(インドの唯物教)には『一なるもの』は存在しないといえるでしょう。「人間」も「心」も、『元素』の結合による実体のない偶然の産物のようです。「心」を霊的物質元素が醸し出すアルコールのようなものだと考えました。
 『一元多神』を信じるものたちにおいては、大衆宗教的には原始的祖霊信仰といっていいでしょう。しかし思想的には「人間」や「心」に対する考え方も多様でした。
 不二一元論では、実在するのは『一なるもの』とその分身である『アートマン・我』のみでした。「人間」の本質は『一なるもの』の『我』であり、「心」は『世界』であり、『一なるもの』の展開する魔法のようなものでした。
 制限不二一元論においては実在するのは『一なるもの』のみであり、人間も心も霊的要素の集合体に過ぎないようです。世界は『一なるもの』の遊び場のようでした。
 仏教思想において実在は『一なるもの』のみだといっていいでしょう。人間も心も世界もその展開に過ぎないようです。
 道家思想においても世界は『一なるもの』からの無為自然的展開ですが、精神的な仏教と違って欲望的といっていいでしょう。

知恵の実」=「心」の中身を調べ、それを思想的に確立しようとしたのが近代的自我の発見者といわれるデカルトといえるでしょうが、その矛盾を露出したのもデカルトだったといえます。『神』を完全無欠な精神を持つ絶対的存在と見る限り、悪の存在も、善悪を選ぶ自由意思もそれと矛盾しているといえます。唯一絶対神教での「心」は『神』のものですから、身体心と結びつけるには機械論的な装置が必要になったといえるかもしれません。
アンセルムスに始まる「神の存在証明」は、唯一絶対神教と一元多神教における「神」の違いを明示している。
神はそれ以上大きなものがないような存在である」と彼はいっているが、一元多神での「神」は名や形はもちろん大きさも持たない。「心の内にあるもの」と「現実にあるもの」の大きさを比プラスすること自体が愚かしいといえます。一種の詭弁というべきでしょう。


アンセルムスによる神の存在証明


自由意志の問題
 一元多神教における自由意志
 アニミズムの延長にある一元多神教における魂は、日本的祖霊信仰に典型的なように、様々な霊的要素の集まりですから、個としての自由意志はないというのが本来の姿でしょう。
 仏教思想の魂は多様で複雑に絡み合った「心の流れ」ですが、簡単に言えば実体のない霊的要素の絡み合いに過ぎません。世界を『気』の変化としてとらえる道教も同じです。それでは識や根という霊的要素自体に自由意志があるのかどうかという疑問がわきますが、そこはやはり「法」や「理」によって展開するもののようです。
 ヒンズー教の不二一元論におけるブラフマン・アートマンには自由意志があっても良さそうですが、欲望などの「業」は原理的な霊の展開であって、アートマンは認識者としての純粋精神でしかないようです。制限不二一元論では唯一絶対的な『神の』気まま勝手な意思しか存在しないといえるでしょう。
 
ギリシャ思想もその本質は一元多神教(むしろ宿命論というべきか)であり、自由意志を持つ魂は存在しないといえるでしょう。

 自由意志が問題になったのは唯一絶対神世界においてでした。そもそも自由意志とは何であるかということは、「理性」の使用者にして、あらゆる行為の主体である「魂」が何者からも独立した自由な存在かどうかにかかっているでしょう。もし精神的価値の根拠である『一なるもの』から独立した主体が存在するとしたら、その自由意志は精神的価値をどのように判断するのでしょうか。彼は何を価値判断の基準とする存在なのでしょうか。そもそも価値判断の自由な存在、自由意志は一なるものの聖性を謳う精神論的世界観とは両立できないものではないでしょうか。
 それでは唯物論的世界観においてはどうでしょうか。もちろんここには実体としての「魂」は存在しないし、すべては科学的法則の因果関係に縛られているのですから、自由意志はもちろん「意志」など存在しようがないというべきでしょう。マルクス主義やサルトル実存主義では、固定的な物的存在に対する革命的な主体性を掲げますが、それは否定的な力としてです。火山の爆発や台風のような破壊的力です。人間は自然に対して破壊者です。彼らが本当に唯物論者なら、それは自由意志からではなく、物理法則的力なのでしょう。
 あるいは、もし生命・魂の発生が科学的法則と関係なく偶然の産物だとしたら、自由意志の問題など生じないでしょう。すべてが自由なのですから。

 とはいえ量子論、有機システム論の登場は、「たましい」と自由意志の問題に新しい展開をもたらすように思われます。
唯一神教世界では心と体は分離されていますが、多神教世界では心と体の分離はありません。そのためにヨーガや気功という心身制御技術が発達したといえるでしょう。しかし霊的能力次第で身体を自由に扱える超能力幻想に陥りがちです。
 「心の時代」を迎えるに当たって、心と体の関係が改めて見直す必要に迫られています。それは意識と物質の問題でもあるといえるでしょう。



現代においても多くの思想家は「自由意志」を否定しているようですが、魂のルーツを探す、真実を求める、心・欲望の葛藤、そこに魂の自主性があり、自由意志があるのは明らかだと思われます。しかし、それはここの物事において、そう見えるだけかもしれません。キン斗雲に乗って自由に駆け回っているつもりだった孫悟空も、けっきょく仏の手の中でしかなかったのです。すべては関係性の中での出来事に過ぎないと仏教思想はいいます。その関係性は無数で複雑で分別不可能、生命論的です。
キリスト教世界では、「魂の自由」や「魂の永遠性」にまで踏み込むことは、パラダイムの変革を主張する前衛的な人々においても、いまだタブーのようです。

kamisyoumei.htmlへのリンク