日本人の霊魂観 | ||
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祖霊信仰 「記紀」に記された日本の神話は、大和政権によって編集創作された天孫族神統紀ですが、それ以前の縄文・弥生時代における信仰の面影を色濃く残しています。それはある意味で非常に重要なことではないかと思います。それは、第二次世界大戦での敗北にいたるまで、日本人が維持してきた宗教形態は原始的な祖霊信仰であったということです。 日本人における宗教の在り方は、神道においても仏教においても、自然と精霊を一体に見る原始アニミズムの形を色濃く残しています。祖霊信仰はアニミズムの延長なのです。そのことを端的に示しているのが日本全国に未だ使われている祭礼の山車です。山車は神としての山をかたどったものです。祭礼の根源は祖霊としての山の神信仰・山岳信仰なのです。 「山の神信仰」において、山の神は祖霊であり、産土神であり、年神であり、田の神でもあります。田の神も水の神も祖霊の一つの形なのです。一つの神が多くの顔を持っているのです。靖国神社の分霊問題にあるように、一つの霊が、雲や霧のように、いくつにも分離出来るという考え方はきわめて特徴的です。これはおそらく、日本民族の成り立ちによるものでしょう。 日本における民族精神の成り立ちは、日本列島が大陸から離れた頃(約1万2千年前)から石器時代、そして縄文時代にかけての山岳信仰的な「祖霊信仰」であったと思われます。日本列島は、日本海の荒波によって大陸から隔てられた島国の故に、長くアニミステックな「祖霊信仰」を維持し続けることが出来ました。 日本民族のもう一つの特徴は「まれ人信仰」でしょう。日本民族の発展には渡来人の存在が欠かせません。黒潮に乗って海を渡ってきた人々、漂着した人々が稲作文明をもたらし、山の神祖霊信仰の先住民と同化混交しながらシャーマニックな要素の強い弥生時代が始まりました。次々と波状的にやってくる渡来人たち(種族として渡来したものもあったでしょう)は、新しい知識や物をもたらしましながら日本民族を形成してきたといえるでしょう。ここに日本人の島国的閉鎖性と、異質な文化に対する受容性という二面性の源があるのでしょう。 また「まれ人」は海の彼方の「常世の国」からやってくる祖霊ともいわれます。渡来人達の子孫は海の彼方に祖霊の地があると信じていたのでしょう。それが縄文時代からの「山の神信仰」と相まって「まれ人信仰」を生み、「他界」思想を生み、異質なものに対して受容、和合し、一体化する精神をはぐくんで、日本人のDNAのようになったと思われます。 日本という国家が完成したのは明治維新後のことですが、建国の始まりは聖徳太子の登場から大化の改新の頃といえます。記紀に記された神話の成り立ちを見ると、戦いに勝った種族の祖霊は負けた種族の祖霊から国を譲り受け、その上座に着くという形で氏族国家が形成されてきた様子が分かります。その頂点に立ったのが大和政権でした。 当時、朝鮮半島の百済国が滅び、多くの人々が渡来したようです。この時代には仏教と道教、そして儒教も伝来しましたが、それらの形而上学的な面、仏教の「唯識思想」や道教の「老荘思想」、儒教の「理気説」などはほとんど受け入れられなかったようです。日本人の、「縄文」(紀元前七、八千年〜紀元前三百年頃)という長いアニミズム・シャーマニズム時代に培われた祖霊信仰というDNAの上に受け入れられたのは、主にアニミズム・シャーマニズム的な面、密教的な面のようです。仏教も祖霊信仰として受容されたものと思われます。こうして日本人の宗教のあり方は一元汎神的な多神教となったといえるでしょう。 日本的な魂観、神道と日本的な仏教と儒教についてもう少し詳しく見てみたいと思います。 |
祖霊信仰 中国における祖霊信仰はたんなる先祖崇拝のようですが、日本における祖霊崇拝はもっと広範囲で、森羅万象すべてに渡っていました。神も仏もそうした祖霊の一つと考えられます。人間も祖霊の子孫です。そして究極的には常世の国の「祖霊」と一体化するという考えのようです。また、身近な祖霊は常に近親者の近くにいて、「草葉の陰から見守っている」と昔の日本人はいいました。 祖霊信仰と「まれ人信仰」の対比には興味深いものです。日常を破壊するものへの恐怖と、それがもたらす豊穣への期待があるようです。 アイヌ文化では、熊は人間に肉を提供するためにこの世に現れた客人(マラプト)だと考えられていたということです。 縄文人にとって、あの世とこの世は時間空間の秩序が逆だったようです。もちろん人間も動物も死ねば神であり、生死はあの世とこの世の間の循環としてとらえられていたようです。子孫は祖先の魂の再生に過ぎないようです。 <梅原猛、日本人の「あの世」観、中央公論社 日本天台宗は中国の天台宗と違い、天台教学より密教的な面が強いようです。創始者最澄には密教的仏教が日本人に適しているという自覚があったのではないかと思われます。その究極が「台密」であり「天台本覚思想」でしょう。密教的修法で修行を積むことなく悟りを得られるという考え方は、浄土真宗や日蓮宗など日本的仏教につながります。 |
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